2012年11月17日

アメリカ史上最強馬・セクレタリアト

私はどちらかといえば、ヨーロッパ志向の人間であり、ヨーロッパに傾倒し、アメリカ調教馬よりヨーロッパ調教馬を高く評価しています。

しかし、そんな私から見てもセクレタリアトの実績・成績・記録などは、アメリカでず抜けており、アメリカ調教馬では、もちろんトップ、ヨーロッパ調教馬に混じっても高い評価をしている馬です。

馬体の毛色が燃えるような赤毛・・・栗毛だったことから、やはりアメリカの伝説的名競走馬、最強を語るときに必ず取り上げられるマンノウォーの異名を継承して2代目「ビッグ・レッド」と呼ばれていました。


セクレタリアトは、1970年にアメリカで生まれました。

セクレタリアトの血統は、父ボールドルーラー母サムシングロイヤル(父プリンスキロ)です。

父ボールドルーラーは、アメリカの大種牡馬、母サムシングロイヤルは、産駒に、セクレタリアトのほかに名種牡馬・サーゲイロード、ファーストファミリー(後に日本に種牡馬として輸入、ホウヨウボーイの父)、ロイヤルタタン(日本へ種牡馬として輸入)などを輩出した優秀な繁殖牝馬です。

セクレタリアトはアメリカのルシアン・ローリン調教師の厩舎に入りました。


セクレタリアトは、1972年の2歳の7月にデビューします。

デビュー戦は、未勝利戦で4着に敗れます。

2戦目の未勝利戦で2着に6馬身差の圧勝をします。

続く3戦目の一般競走を1馬身1/2差で勝つと、サンフォードステークス、ホープフルステークス、フューチュリティステークスをそれぞれ3馬身差、5馬身差、1馬身3/4差で連勝します。

この頃より、アメリカの名馬・マンノーウォーの名を継承し、2代目「ビッグ・レッド」と呼ばれるようになります。

続くシャンペンステークスも1位入線しますが、進路妨害で2着に降着します。

シャンペンステークスに敗れたセクレタリアトでしたが、続いてのローレルフューチュリティ、ガーデンステートステークスを8馬身差、3馬身1/2差で連勝し、9戦7勝2着1回(他に4着1回)で2歳のこの年を終えます。

2歳馬にしてアメリカの年度代表馬となりました。

2歳馬で年度代表馬になるとは、すごいですね。


1973年に3歳のセクレタリアトは、1月にオーナーのクリストファー・チェナリー氏が死去したため、セクレタリアトの種牡馬としての権利が売却され、巨額のシンジケートが組まれました。

この額が英3冠馬のニジンスキーをも上回り、話題となりました。

このシンジケートには、社台ファーム(当時、現在の社台グループ)の総帥・故吉田善哉氏も名を連ねていました。

吉田善哉氏は、アメリカ競馬に傾倒し、ボールドルーラーの血・血統にこだわった生産者であると思っていますが、これにはアメリカの怪物・セクレタリアトの強さなどの存在があったからかもしれません。

セクレタリアトは、ベイショアステークス、ゴーサムステークス(レコード)を4馬身1/2差、3馬身差で連勝すると、続くケンタッキーダービーの前哨戦のウッドメモリアルステークスで3着に敗れます。

しかし本番のアメリカのクラシック3冠の1冠目のケンタッキーダービーは、シャムに2馬身1/2差をつけ、勝ちタイムも1分59秒4のレコードタイムで優勝しました。

それまでのレコードは、かのノーザンダンサーが記録した2分ちょうどで、セクレタリアトの走破タイムは、史上初めて2分を切るタイムでした。

アメリカのクラシック3冠の2冠目のプリークネスステークスは、シャムに2馬身1/2差で快勝しています。

同レースが施行されたピムリコ競馬場の時計計測器が故障しており、記録係が手動計測した1分54秒4(最初は1分55秒でしたが、後に訂正)で、専門誌の計測では、公式タイムと別に、レコードタイムとなる1分53秒4が記録されています。

次にアメリカのクラシック3冠の3冠目・ベルモントステークスに、セクレタリアトは臨みます。

ベルモントステークスは、セクレタリアトの強さを示すベストレースともいえるレースになります。

セクレタリアトは、2分24秒0の驚異のレコードタイムで、2着のトワイスアプリンスに31馬身差(!)をつけて勝ちました。

ここに1948年のサイテーション以来の史上9頭目のアメリカ3冠馬が誕生します。

それにしてもセクレタリアトがベルモントステークスで記録した2分24秒0は驚異的タイムです。

ダート12ハロン(約2400メートル)の世界レコードで、芝に換算すると2分21秒台(!)といわれます。

しかもレースは、楽勝・圧勝の馬なりで・・・。

2分24秒台は、もちろんセクレタリアトだけで、2分25秒台もおらず(!!)、2分26秒台も数頭です。

いかに尋常ではないすごすぎる、驚異的タイムかわかりますね。

もはやこのレコードタイムは更新不可能さえいわれています。

セクレタリアトは、「タイム」誌などの表紙を飾り、アメリカの国民的英雄となりました。

セクレタリアトは、その後、アーリントン招待ステークスで9馬身差で勝ち、ホイットニーハンデで2着に敗れます。

この敗因は後に馬の発熱からといわれています。

続くマールボロカップ招待ハンデをレコードタイムで2着のリヴァリッジ3馬身1/2差で勝ち、重馬場のウッドワードステークスで2着に敗れます。

初代「ビック・レッド」のマンノウォーを冠した初めての芝のレース・マンノウォーステークスをレコードタイムで5馬身差の圧勝をします。

芝のレースでも変わらぬ強さを見せたセクレタリアトは、カナダに遠征し、同じく芝のレース・カナディアン国際チャンピオンシップステークスを6馬身1/2差で圧勝します。

このレースを最後にセクレタリアトは競走馬を引退します。

3歳時のこの年も年度代表馬となっています。


種牡馬となったセクレタリアトは一般に種牡馬としては失敗といわれることが多いようです。

これは周囲の期待があまりにも大きく、同世代のミスタープロスペクターと比較されるためと思われます。

しかし、ブリーダーズカップ・ディスタフ(後のブリーダーズカップ・レディーズクラシック)の勝ち馬でアメリカの年度代表馬のレディーズシークレット、プリークネスステークス、ベルモントステークスのアメリカの2冠馬・リズンスターなどを輩出し、まずまずの成功をしています。

セクレタリアトは父系より母の父として、ストームキャット、エーピーインディ、サマースコール、ゴーンウエスト、セクレト、チーフズクラウンなどを出し成功しています。

セクレタリアトは1989年に死亡しています。


セクレタリアトの走法は、サラブレッドの理想に近いといわれ、日本では日本競馬史上2頭目の無敗の3冠馬となったディープインパクトがセクレタリアトに似た走法といわれたようです。

セクレタリアトは大食漢で、かなりの大型馬でしたが、馬体に欠点はなく、心臓も10キロ弱で、普通の馬の倍以上あるといわれました。

上記の点もセクレタリアトの強さにつながっているといわれています。

私は、セクレタリアトがアメリカの最強馬ではないかと思っています。

(この記事は、サイト「メインウェーブ」の記事「セクレタリアト」をそのまま転載したものです)

posted by keiba-meeting at 17:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 世界の名馬 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月13日

英2000ギニーでミルリーフを下した名馬・ブリガディアジェラード

「欧州3大レース」制覇の偉業を達成した馬は、これまでに2頭います。

「シャドーロールの怪物」といわれたミルリーフと「神の馬」といわれたラムタラです。

このうち、「欧州3大レース」を制覇したミルリーフが敗れた、しかもイギリスのクラシック3冠の1冠目の英2000ギニーで敗れたのがブリガディアジェラードです。

ミルリーフの戦績は14戦12勝ですが、このうちの1敗を英2000ギニーでブリガディアジェラードに喫しています。
(後の1敗は、2歳時にロバールパパン賞でマイスワローに喫しています)

もう1頭のラムタラは無敗馬(4戦4勝)で敗戦はありません。

10ハロン以下(約2000メートル)の距離では、無敵の強さを誇り、たとえ「欧州3大レース」を制覇したミルリーフさえ相手にしない強さを誇ったブリガディアジェラード・・・

ブリガディアジェラードは、1968年にイギリスで生まれ、イギリスのディック・ハーン調教師の厩舎に入りました。


1970年に2歳となったブリガディアジェラードは、6月にパークシャーステークスでデビューします。

デビュー戦は、2着に5馬身差の圧勝でした。

続いてシャンペンステークス、ワシントンシンガーステークス、ミドルパークステークスと勝ち続け、それぞれ4馬身差、2馬身差、3馬身差と余裕の勝利をしたブリガディアジェラードでした。

この年は4戦全勝でしたが、この年の2歳馬では、マイスワロー、ミルリーフが評判となっており、前述のように無敗で、2歳馬の大レース・ミドルパークステークスを勝っているにもかかわらず、評価は高くなく、2歳馬のフリーハンデは、7戦全勝のマイスワロー(133ポンド)、6戦5勝と1敗しているミルリーフ(132ポンド)に次ぐ3位の131ポンドという評価でした。

年が明け、3歳となったブリガディアジェラードは、イギリスのクラシック1冠目の2000ギニーに前哨戦を叩かず、いきなり挑みます。

レースは、ブリガディアジェラードが2着のミルリーフに3馬身差の快勝をします。

ちなみに、マイスワローは3着でした。

イギリスのクラシック3冠の1冠目である2000ギニーを制したブリガディアジェラードでしたが、イギリスのクラシック3冠の2冠目の英ダービーには、距離の適性も考えて向かいませんでした。
(英ダービーには、ミルリーフが出走し優勝、マイスワローはブリガディアジェラードと同じく不出走)

ブリガディアジェラードは、8ハロン(約1600メートル)のセントジェームズパレスステークス、サセックスステークス、グッドウッドマイルステークス、クイーンエリザベスUステークスと6月から9月に連勝しました。

着差は、それぞれアタマ差、大差、10馬身差、8馬身差です。

追撃に苦戦したセントジェームズパレスステークス以外は圧勝ですね。

10月に10ハロン(約2000メートル)の英チャンピオンステークスで短頭差で勝ちます。

この年は6戦6勝でした。

3歳フリーハンデは、ミルリーフ(133ポンド)に次ぐ2位の129ポンドとなり、ヨーロッパ年度代表馬もミルリーフでした。

ブリガディアジェラードとミルリーフの直接対決(英2000ギニー)では、ブリガディアジェラードが勝っていますが、ミルリーフが「欧州3大レース」を3つとも制覇したことが大きく評価されたようですね。


年が明け、4歳となったブリガディアジェラードは、8ハロン(約1600メートル)のロッキングステークス、10ハロン(約2000メートル)のウエストバリーステークスを2馬身1/2差、1/2差で連勝します。

続いて、10ハロン(約2000メートル)のプリンスオブウェールズステークスをコースレコードで5馬身差の圧勝をします。

次のエクリプスステークスは、ミルリーフが出走を予定し、ブリガディアジェラードとの「世紀の対決」と注目されましたが、ミルリーフが馬インフルエンザの影響でこのレースを回避し、「世紀の対決」は実現しませんでした。

レースは、ブリガディアジェラードが1馬身差で勝っています。

さらに、適性距離の守備範囲を超える12ハロン(約2400メートル)のキングジョージY&クイーンエリザベスステークスでしたが、このレースも1馬身1/2差で勝利しています。

ブリガディアジェラードは、デビュー以来の15まで連勝を伸ばしました。

しかし続くベンソン&ヘッジス金杯にリボーらが持つ欧州記録のデビュー以来の16連勝に挑んだが、1歳年下の英ダービー馬・ロベルトに3馬身差で敗れ、デビュー以来の連勝は15でストップしました。

距離としてはベンソン&ヘッジス金杯は、約2100メートルのレースです。

勝ったロベルトは、ブライアンズタイム、リアルシャダイ、クリスエス(シンボリクスエスの父)、シルヴァーホーク(グラスワンダーの父)などの父です。

ブリガディアジェラードが敗れた後、ミルリーフは骨折で競走馬を引退しています。

連勝が15でストップしたブリガディアジェラードでしたが、続く8ハロン(約1600メートル)のクイーンエリザベスUステークス、10ハロン(約2000メートル)の英チャンピオンステークスを6馬身差、1馬身1/2差で連勝し、戦績を18戦17勝とし、競走馬を引退しました。

この年のブリガディアジェラードは、8戦7勝で、イギリスの年度代表馬となりました。


種牡馬となったブリガディアジェラードは、ライトカヴァルリー(英セントレジャー)などがいるぐらいで成功しませんでした。

種牡馬対決では、明らかにミルリーフに劣りました。

1986年には受胎率の低下で種牡馬を引退、1989年に死亡しています。


同世代のミルリーフがアメリカで生まれ、前年の英3冠馬・ニジンスキーがカナダで生まれたのに対し、ブリガディアジェラードは、生粋のイギリス生まれで、イギリスの国民的アイドルでした。

そのため連勝を止めたロベルトは、悪役となってしまいました。


ブリガディアジェラード・・・「欧州3大レース」の覇者であるミルリーフを英2000ギニーで下しました。

総合的にはミルリーフが上だと思いますが、「現実」として直接対決の英2000ギニーは、8ハロン(約1600メートル)で、ブリガディアジェラードのほうが得意とする距離ですが・・・ミルリーフを下しました。

ブリガディアジェラードは、タイムフォーム誌のレィテングで、シーバードの145ポンドに次ぐリボーと並ぶ欧州2位の143ポンドとなっています。
(ミルリーフのタイムフォーム誌のレィテングは141ポンドで、ブルガディアジェラードは、ミルリーフを上回っています)

(この記事は、サイト「メインウェーブ」の記事「ブリガディアジェラード」をそのまま転載したものです)

posted by keiba-meeting at 10:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 世界の名馬 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

史上初の欧州3冠・ミルリーフ

「欧州3大レース」とは、ヨーロッパの上半期のチャンピオン決定戦で、イギリス最大のレースといわれる「キングジョージY&クイーンエリザベスステークス」と、ヨーロッパの下半期のチャンピオン決定戦で、フランス最大のレース、世界最高峰のレースともいわれる「凱旋門賞」と世界各国にあるすべてのダービーといわれるレースの規範となった「英ダービー」のことです。

(ちなみに「キングジョージY&クイーンエリザベスステークス」は、最初は「キングジョージY&クイーンエリザベスフェステバルオブブリテンステークス」で施行され、1952年に「キングジョージY&クイーンエリザベスステークス」となり、ダイヤモンドのスポンサーの関係で、1975年から2006年まで「キングジョージY&クイーンエリザベスダイヤモンドステークス」で、ダイヤモンドのスポンサーが撤退し2007年から「キングジョージY&クイーンエリザベスステークス」となりました)

(「キングジョージY&クイーンエリザベスステークス」に、レースの名称を、統一します)

「欧州3大レース」は、3つともGT中のGTで、大レース中の大レースで、どのレースも1つ勝つだけで大変なことです。

この3つを全て制覇したのは、史上2頭しかいません。

そのうちに1頭が本記事のミルリーフであり、もう1頭がラムタラです。

(ラムタラの出走した当時の1995年は前述のように「キングジョージY&クイーンエリザベスステークス」は「キングジョージY&クイーンエリザベスダイヤモンドステークス」でしたが・・・)

この3つの大レースとも制覇するのは、大変で、とてつもなくすごい快挙・偉業だと思います。


ミルリーフは、シャドーロールを装着していたことから、「シャドーロールの怪物」といわれました。

「シャドーロールの怪物」といえば、日本では1994年の3冠馬・ナリタブライアン・・・

古くは1982年の第2回ジャパンカップ出走のため来日したアメリカのジョンヘンリーで有名ですね。


ミルリーフは、1968年にアメリカで生まれました。

ミルリーフは、ポール・メロン氏が生産し、馬主となった馬です。

メロン氏が、ミルリーフのオーナーブリーダー(生産者兼馬主)というわけです。

ミルリーフは、イギリスのイアン・ボールディング調教師の厩舎に入りました。


1970年5月に2歳のミルリーフはデビューします。

レースは、ソールズベリーステークスで圧勝でした。

2戦目にコヴェントリーステークスに出走したミルリーフは、2着に8馬身差で圧勝します。

3戦目にフランスに遠征し、ロバールパパン賞に出走しますが、マイスワロー(後に日本に種牡馬として輸入)に短頭差で2着に敗れます。

イギリスに戻り、ジムクラシックステークス、インペリアルステークス、デューハーストステークスをそれぞれ10馬身差、1馬身差、4馬身差で勝ちます。

2歳のこの年は6戦5勝2着1回でした。

この年のフリーハンデは、マイスワローの133ポンドに次ぐ132ポンドで2位でした。

ちなみに後にライバルといわれるブリガディアジェラードは、131ポンドで3位でした。


年が明けて、1971年に3歳となったミルリーフは、イギリスでグリーナムステークスに出走し、2着に4馬身差で圧勝します。

ここまで、ロバールパパン賞以外は、ほとんど圧勝のミルリーフは、クラシックの有力として、イギリスのクラシック1冠目の英2000ギニーに臨みます。

このレースでミルリーフは、ブリガディアジェラードに3馬身差の2着と敗れます。

ちなみにマイスワローは、3着でした。

続いてブリガディアジェラードもマイスワローも出走しないクラシック第2冠目の英ダービーは、ミルリーフが2馬身差でリンデントリーに勝ちました。

距離の適性から個人的にはブリガディアジェラードやマイスワローが出走していてもミルリーフが勝っていたと思います。

ミルリーフも当時は距離に不安があるとされていましたが、問題ありませんでした。

今では不安視する考えはありませんが、当時は父ネヴァーベントのスピード血脈から距離が持たないのでは・・・との声もありました。

続いてミルリーフは、初の古馬相手に、エクリプスステークスに出走し、カロ(仏2000ギニー、ガネー賞、後に日本へ種牡馬として輸入)にコースレコードで4馬身差をつけて圧勝しました。

ヨーロッパの上半期のチャンピオン決定戦のキングジョージY&クイーンエリザベスステークスに出走したミルリーフは、オーティスに6馬身差をつけて圧勝します。

キングジョージY&クイーンエリザベスステークスを圧勝したミルリーフは、最後の目標の秋の凱旋門賞に備え、休養します。

休養をとり、フランスに遠征したミルリーフは、凱旋門賞に出走します。

凱旋門賞では、2着の仏オークス馬・ピストルパッカーに3馬身差をつけてコースレコードで快勝します。

ここに「欧州3大レース」制覇の偉業があっさりと達成されました。

前年にニジンスキーが「英3冠馬」となり、次の年には、「欧州3大レース制覇馬」の誕生です。

ミルリーフの強さはもちろんですが、ミルリーフの余裕のあるスケジュールで、長距離戦を使わなかったのは、前年のニジンスキーの過酷なスケジュールや長距離戦(英セントレジャー)を使って、その後に凱旋門賞敗退の原因のひとつともいわれたことから、ニジンスキーの「教訓」がミルリーフの「欧州3大レース」制覇に活かされた気もします。

この年のミルリーフは、6戦5勝で、ヨーロッパ年度代表馬となり、フリーハンデは、133ポンドと1位となりました。

ちなみに英2000ギニーでそのミルリーフを下し、この年無敗の6戦6勝だったブリガディアジェラードは129ポンドで2位でした。


1972年に4歳となったミルリーフは、フランスに遠征し、ガネー賞を10馬身差で圧勝します。

イギリスに戻ったミルリーフは、コロネーションカップに出走し、2着のホメリックにクビ差で辛勝します。

勝つには勝ったが、いつもと違うミルリーフは、馬インフルエンザにかかっており、予定のエクリプスステークスを回避します。

エクリプスステークスでは、ブリガディアジェラードとの「世紀の対決」が予定されていただけに、残念な回避でした。

そのミルリーフも出走を予定していたエクリプスステークスを快勝し、無敗の連勝を伸ばしたブリガディアジェラードは、適性距離(10ハロンまでは強いといわれていた)を超える12ハロンのキングジョージY&クイーンエリザベスステークスも快勝しました。

しかし8月15日にベンソン&ヘッジス金杯で敗れ、無敗の連勝が15でストップします。

凱旋門賞を目標にしていたミルリーフは調教中に骨折し、一命は取り留めたものの、競走馬の引退を余儀なくされました。
(予後不良で生命を絶たれても仕方ないほどの致命傷でしたが、ミルリーフの強さ、種牡馬の可能性を惜しむ関係者によって治療されました)

なお、ブリガディアジェラードは、その後に適性距離(前述のように10ハロン以下)の守備範囲のクイーンエリザベスUステークス(8ハロン)、英チャンピオンステークス(10ハロン)を勝ち、戦績18戦17勝で引退しています。

前述のようにシャドーロールを装着し、「シャドーロールの怪物」といわれたミルリーフ・・・

「欧州3大レース」の偉業を最初に成し遂げた驚異の強さを誇ります。

もし、ブリガディアジェラードとミルリーフが再戦していたら・・・ブリガディアジェラードの適性距離の10ハロン以下ではブリガディアジェラードに分があるだろうが、10ハロン以上の距離、総合的にはミルリーフの方が上だと私は個人的に思いますが、どうなったでしょうか。

「世紀の対決」は、夢となってしまいました。


イギリスで種牡馬となったミルリーフは、1978年と1987年の2回のイギリスのリーディングサイヤーになっています。

1回目は、英愛ダービー馬のシャーリーハイツや仏ダービー馬・アカマスなどの活躍で、2回目は死後に英ダービー、英セントレジャーの英2冠とキングジョージY&クイーンエリザベスステークス馬・リファレンスポイントなどの活躍で・・・。

他にブリーダーズカップ・ターフ馬・ラシュカリなどがいます。

日本では、マグニチュード、ミルジョージなどが種牡馬として活躍しています。

英愛ダービー馬・シャーリーハイツの産駒・スリップアンカーが英ダービーに勝利し、3代にわたり英ダービー馬を輩出するなど成功しています。

ミルリーフは、1986年に死亡しています。

(この記事は、サイト「メインウェーブ」の記事「ミルリーフ」をそのまま転載したものです)

posted by keiba-meeting at 09:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 世界の名馬 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

20世紀最後のイギリス3冠馬・ニジンスキー

1970年にニジンスキーがイギリス3冠(英3冠、英2000ギニーと英ダービーと英セントレジャー)馬になって以後、イギリス3冠馬は出現していません。

ニジンスキーは「20世紀最後のイギリス3冠馬」などといわれることが多いですが、長距離レースの価値の地盤沈下、英セントレジャーの価値の低下、現在競馬のスピード化などで、3冠目の英セントレジャーへの挑戦そのもが減ってきている現状から「最後のイギリス3冠馬」となる可能も大きいと思われます。

「イギリス牝馬3冠」(英牝馬3冠、英1000ギニーと英オークスと英セントレジャー)は、1985年にオーソーシャープがなっていますが、イギリス3冠馬はニジンスキー以降出現していません。

それだけイギリス3冠馬は、貴重で珍しい存在であるということです。

ある意味で価値があるともいえると思います。


ノーザンダンサーの多くの産駒がバレーダンサーの名がついたように、ニジンスキーもバレーダンサーの名がついています。

ニジンスキーの名は、ロシアの天才バレーダンサーのヴァーツラフ・ニジンスキー氏にちなんでいます。

ニジンスキー氏は、伝説的バレーダンサーとして知られています。

ニジンスキー氏のジャンプは、「重力を無視する」ごとく見事で、「空中を浮かぶジャンプ」ともいわれました。

彼のジャンプは、「跳躍する」のではなく「(空を)飛ぶ・(空を)浮かんでいる」(!)のような滞空時間の長い見事なジャンプでした。

最近では、NBAのプロバスケット選手のマイケル・ジョーダン氏が滞空時間の長いジャンプで「エア」といわれましたが、ニジンスキー氏のジャンプは、ジョーダン氏のジャンプのようだったかも知れません。

いずれにしても、ニジンスキー氏とジョーダン氏が天才だからこそのエピソードといえます。

(競走馬の)ニジンスキーは、そんな伝説的天才バレーダンサー・ニジンスキー氏にちなみ、名づけられています。


ニジンスキーは、1967年にカナダに生まれました。

生産者は、カナダの天才馬産家のエドワード・プランケット・テイラー氏です。

テイラー氏は、世界的大種牡馬・ノーダンダンサーを生産したことでも知られています。

ニジンスキーの父はそのノーダンダンサーで、前述にように、後にノーダンダンサーは、世界的大種牡馬となります。

母のフレーミングペイジもテイラー氏の生産馬で、カナダの英ダービーにあたるクイーンズプレートを勝ち、カナダオークスも勝ち、アメリカでもケンタッキーオークスで2着となる活躍をしました。

半姉のフルール(父ヴィクトリアパーク)は、母として名馬ザミンストレルを輩出しました。

全弟ミンスキーは、アイルランドの2歳チャンピオンで、後に日本に種牡馬として輸入されています。


父ノーダンダンサーは、小型で、産駒も小型馬が多い中、ニジンスキーは大型馬として知れれています。

ニジンスキーは、チャールズ・W・エンゲルハード氏に売られます。

エンゲルハード氏がニジンスキーを所有したきっかけは、アイルランドのヴィンセント・オブライエン調教師が、ニジンスキーに魅了されたことにあります。

オブライエン調教師はエンゲルハード氏の依頼で、リボー産駒を見る目的で、ニジンスキーの生産牧場を訪れますが、目的のリボー産駒よりニジンスキーに魅了されていました。

エンゲルハード氏は、リボーに魅せられたのがきっかけで馬主となり、毎年リボーの仔を持つのが恒例となっていました。

この年も素質がありそうな(優秀そうな)リボー産駒を探していました。

オブライエン調教師は、その目的(リボー産駒を見る)で、ニジンスキーの生産牧場を訪れ、ニジンスキーに魅了されたんですね。

世界的調教師であるオブライエン調教師が魅了されるとは、ニジンスキーはよっぽど魅力的だったのでしょう。

ニジンスキーに魅了されたオブライエン調教師は、エンゲルハード氏にニジンスキーの購入をすすめ、エンゲルハード氏はニジンスキーをセールで購入しました。

こうした経緯もあり、ニジンスキーはオブライエン調教師のバリードイル厩舎に入厩しました。


ニジンスキーは、1969年7月にアイルランドのアーンステークスで、リーム・ウォード騎手騎乗でデビューします。

デビュー戦は、1/2馬身差の快勝でした。

2戦目のレイルウェーステークスで2着の後の愛2000ギニー馬・デシースに5馬身差で圧勝します。

3戦目のアングルシーステークスも3馬身差で圧勝します。

4戦目のペレスフォードステークスでは再びデシースに3/4馬身差をつけて勝ちます。

5戦目にイギリスに遠征すると、レスター・ピゴット騎手騎乗で、デューハーストステークスに3馬身差で快勝、2歳のこの年を5戦5勝とします。

この年は、アイルランドとイギリスで2歳チャンピオンとなっています。

なお、これ以降もアイルランドではウォード騎手、それ以外の国ではピゴット騎手がニジンスキーに騎乗しています。


1970年、3歳のニジンスキーは、アイルランドのグラッドネスステークスに出走します。

このレースでは、前年の愛セントレジャー2着馬・ディープランに5馬身差の圧勝をします。

続いてイギリスに遠征し、イギリスクラシック1冠目の英2000ギニーに出走します。

このレースでは、後方から追い込み、2着のイエローゴット(後に日本で種牡馬、アローエクスプレスの父)に2馬身1/2差で快勝します。

続いてはイギリス2冠目となる英ダービーに出走します。

しかし、父のノーダンダンサーが1マイル1/2(12ハロン、約2400メートル)のベルモントステークスで3着に敗れたことから、スタミナ不安説も出ました。

英ダービーは、当時は1マイル4ハロン(約2400メートル)で施行されていると思われていました。

ところが、1991年の計測で1マイル4ハロン10ヤード(約2323メートル)と判明、以後表記が改められて施行されています。

いずれにしても、ニジンスキーには、距離不安・スタミナ不安ですね。

しかし、そんな不安をふきとばし、ニジンスキーは、ジルに2馬身1/2差をつけて快勝します。

優勝タイムは、マームードに次ぐ英ダービー史上2番目の速さ(当時)でした。

この英ダービーには、名前の由来となったヴァーツラフ・ニジンスキー氏の未亡人であったロモラ・ニジンスキー夫人がエンゲルハード氏によって招待されました。

自分の亡くなった夫にちなんで名づけられたニジンスキーが英ダービーを勝利すると、この瞬間思わず泣き崩れたといわれます。

続いてアイルランドに戻り、愛ダービーへ出走します。

ニジンスキーは、2着のメドウヴィルに3馬身差をつけて楽勝します。

続いてイギリスに遠征し、ヨーロッパの上半期最大のレースといわれるキングジョージY&クイーンエリザベスステークスに出走します。

このレースは、前年の英ダービー馬・ブレークニー、前年のワシントンDC国際馬・カラバスなどが出走しましたが、ブレークニーに余裕の3馬身差の快勝をしています。

その後に、ウイルス性の感染症によって発疹が出ました。

しかし、イギリスへ遠征し、イギリス3冠目の英セントレジャーに出走します。

当初、ニジンスキー陣営は、英セントレジャー出走に乗り気でなかったといいわれます。

馬主のエンゲルハード氏が英セントレジャーを施行するドンカスター競馬場から出走を要請(お願い)され、それに応えて出走した経緯があります。

同じようなケースは、日本にもありましたね。

1984年に無敗の2冠馬(当時)だったシンボリルドルフが、菊花賞かジャパンカップかで、イギリス3冠の現状(長距離戦の価値の地盤沈下、英セントレジャーの価値の低下など)から、シンボリルドルフは、菊花賞を回避し、ジャパンカップのみに出走するのでは・・・といわれました。

菊花賞は、イギリスを模範としたレース体系からイギリスでいえば、英セントレジャーにあたります。

シンボリルドルフのオーナーだった和田共弘氏が、国際派でヨーロッパに傾倒していることもその理由です。

しかし、和田氏とシンボリルドルフ陣営は、菊花賞とジャパンカップの両方に出走します。

シンボリルドルフは、菊花賞を制し、日本競馬史上初の無敗の3冠馬となりますが、当時のきついローテーション(菊花賞とジャパンカップの間が中1週、その後、ローテーションは改善されます)と下痢の体調不良、カツラギエースの逃げにノーマークだったことなどもあり、カツラギエースの3着に敗れます。

規模や条件などは違いますが、ニジンスキーの3冠と凱旋門賞の敗退(後述)は、シンボルルドルフの3冠とジャパンカップの敗退とだぶります。

日本では3冠馬の価値がまだあり、その後に、日本競馬史上2頭目の無敗の3冠馬のディープインパクトや最近では昨年(2011年)に、オルフェーヴルが日本競馬史上7頭目の3冠馬となっています。

日本では、3冠馬の価値はまだあり、ヨーロッパなどでは、3冠馬の価値がなくなってきており、国が違えば事情も違うことを感じさせます。

日本などは、スピードのある(「能力」のある、強さが抜きん出た)中距離馬が長距離も「能力」や「強さ」で克服する傾向があるためと思います。

シンボリルドルフはジャパンカップに出走し、ジャパンカップの存在感を示しましたが、日本のチャンピオンクラスの馬がジャパンカップを回避し、有馬記念に出走する傾向(ナリタブライアンやオルフェーヴルなどは、このローテーションで3冠と有馬記念を優勝)にあることは、個人的にどうかと思います。

JRAのスローガンの「世界に通用する馬づくり」の点からいえば、もっとジャパンカップを重視すべきだと個人的には思います。

伝統ある有馬記念を重視するのはわからないでもないですが、「世界」を意識した時、もっとジャパンカップを重視すべきと個人的には思います。

ニジンスキーは、前述のように英セントレジャーに出走しました。

レースは、ニジンスキーがメドウヴィルに1馬身差をつけて快勝します。

ニジンスキーが1935年にイギリスの3冠馬となったバーラム以来の史上15頭目のイギリスの3冠馬となります。

しかも無敗でイギリスの3冠馬となったのは、オーモンド、アイシングラス、バーラムに次ぐ史上4頭目の快挙です。

無敗で3冠馬となったニジンスキーは、次にフランスに遠征し、世界最高峰のレースといわれる凱旋門賞に出走します。

レースは、初めて鞭をふるわれるニジンスキーが少しひるみ、よれて、この年の仏ダービー馬・ササフラがニジンスキーにわずかアタマ差で勝ちます。

ニジンスキー生涯初の敗戦・・・

敗因は、騎乗のピゴット騎手が初めて鞭を入れた、慢心・油断があった、ピゴット騎手の「勝ち方」のこだわり(ただ勝つのではなく、「華麗」に勝とうした)、過密なスケジュール、長距離戦(英セントレジャー)に出走した疲労、競走馬としてのピークを過ぎていたなどいろいろいわれました。

敗因はいろいろあり、はっきりとはわかりませんが、過密なスケジュールで、長距離戦に出走した疲労があったと思われます。

名(イギリスの3冠馬)をとって実(凱旋門賞の勝利)を失ったといわれるニジンスキー・・・

この後、イギリスに遠征し、英チャンピオンステークスにニジンスキーは出走します。

レースは、ロレンザッチョが勝ち、ニジンスキーは1馬身1/2差の2着でした。

このレースは、凱旋門賞からわずか13日後で臨んでおり、過密なスケジュールによる疲労が考えられます。

あるいは競走馬としてピークを過ぎていたのかも知れません。

ニジンスキーの過密なスケジュール、長距離戦を使った「教訓」などから、比較的余裕のあるローテーションで、長距離戦を使わずに、ニジンスキーの成し得なかった「欧州3大レース制覇」(英ダービー、キングジョージY&クイーンエリザベスステークス、凱旋門賞)をした馬が、ニジンスキーのイギリスの3冠達成の翌年(1971年)に出現します。

その名はミルリーフ・・・

ミルリーフの「欧州3大レース制覇」は、ある意味で、ニジンスキーが残した「教訓」を活かして達成したものといえます。

ニジンスキーとミルリーフが対戦していたらどうなっていたでしょうか・・・。

興味深い・注目の対戦ですね。

ミルリーフはシャドーロールを装着していたことから「シャドーロールの怪物」といわれました。

日本で「シャドーロールの怪物」といえば、3冠馬・ナリタブライアンですね。

もっと古くは、アメリカからジャパンカップに出走したジョンヘンリーを思い出します。

まったくの余談ですが・・・。

「欧州3大レース制覇」は、ミルリーフ以後なかなか出現しませんでしたが、ニジンスキーの死後に、ニジンスキー産駒のラムタラが、ニジンスキー自身が達成できなかった「欧州3大レース制覇」をしています。

ラムタラの戦績は、4戦4勝の無敗で、デビュー戦の勝利以外は「欧州3大レース」の勝利だというから驚きです。

ニジンスキーは、無敗の3冠馬の時点で引退していれば、あるいは「史上最強馬」の候補だったかもしれません。

あるいは、英セントレジャーに出走しない、翌年の凱旋門賞に挑戦するといった選択肢もあったかもしれません。

高額のシンジケートが組まれ、種牡馬入りを遅らすことのできない事情もありました。

ニジンスキーは、過密なスケジュールに(けなげに)果敢に挑んだからこそ、強烈に「記憶に残る名馬」となりえたと思います。

もちろん「20世紀最後の英3冠馬」として「記録も残す名馬」となっていますが・・・。
(前述のように「最後の英3冠馬」となるかもしれません)

英チャンピオンステークス2着を最後にニジンスキーは競走馬を引退し、種牡馬となりました。

ニジンスキーは、気性の激しい馬だったといわれ、だからこそ走ったといわれています。


種牡馬となったニジンスキーは、カーリアン(仏ダービー、1988年・1991年英愛リーディングサイヤー)、グリーダンサー(仏2000ギニー、1991年仏リーディングサイヤー)、シャーラスタニ(英ダービー、愛ダービー)、ゴールデンフリース(英ダービー)、ファーディナント(ケンタッキーダービー、ブリーダーズカップ・クラシック)、イルドブルボン(キングジョージY&クイーンエリザベスステークス、コロネーションカップ)、そして前述の無敗の「欧州3大レース」を制覇したラムタラ(英ダービー、キングジョージY&クイーンエリザベスステークス、凱旋門賞)などを出し、父ノーダンダンサーと同じように大成功しました。

日本へはマルゼンスキーをはじめ多くのニジンスキー産駒やニジンスキー系が輸入されました。

ニジンスキーは1992年に死亡しています。

(この記事は、サイト「メインウェーブ」の記事「ニジンスキー」をそのまま転載したものです)



posted by keiba-meeting at 09:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 世界の名馬 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年10月05日

16戦全勝無敗、凱旋門賞連覇のリボー

フランスの凱旋門賞は競馬の国際レースとして世界最高峰の一つといわれます。

生涯戦績16戦全勝無敗、凱旋門賞連覇のイタリアのリボーは、その点で非常に評価の高い馬です。

リボーを史上最強馬と評価する人もいます。


リボー

16戦16勝で無敗の戦績、2着以下につけた着差が合計で100馬身差近く、世界最高峰のレースともいわれる凱旋門賞を連覇したリボーは、史上最強馬というひともいます。

リボーは、1952年にイギリスのナショナル・スタッドで生まれました。

生産がイタリアの天才馬産家のフェデリコ・テシオ氏でした。

生産がイタリアのテシオ氏で、リボーの両親ともに、テシオ氏の生産馬だったのに、イタリアではなく、イギリスで生まれたのは、母のロマネラを種牡馬・テネラニと交配し、イギリスに滞在していた時にリボーが生まれたからです。

父母や関係者などがイタリアで、イタリア色が強いリボーが、生産国がイギリスとなっているのは、このためです。

テシオ氏は独自の生産ビジョンを持ち、種牡馬を手元に置かない主義のだったため、このようなケースは、他のテシオ氏の生産馬にも見られます。

生後にすぐにイタリアへ渡ったリボー・・・

リボーは、子馬の頃は、小柄で、小さく、「イル・ピッコロ(ちびっこ)」とよばれ、育ちました。

テシオ氏は、この子馬に自身の生産馬に画家の名を好んでつけたように、フランスの画家・テオデゥル・オーギュスタン・リボーにちなみリボーと名づけました。

リボーが生まれた頃は、後述のようにテシオ氏も最晩年で、画家の名を馬名につけつくし、この画家(リボー)の名はかなり無名です。

テシオ氏は、リボーに尋常ではない素質や気配・雰囲気を感じたものの、馬格がなく、小柄で見栄えのしないリボーのクラシック登録をしませんでいた。

リボーの感じた素質などは、テシオ氏の天才馬産家としてのカンや相馬眼からでしょう。

やがてテシオ氏のリボーに感じた素質などが現実のものとなります。

しかし、テシオ氏はリボーの活躍をみることなく、リボーがデビューする2ヶ月前に死去しました。

リボーは、テシオ氏が最晩年に生産した馬で、テシオ氏の最後にして競走馬としての最高傑作になります。

後のサラブレッドに与えた影響力では、競走馬としても超一流であったテシオ氏の生産馬・ネアルコ(14戦14勝の無敗)のほうが上ですが、競走馬としての戦績・実績は、16戦16勝の無敗で、凱旋門賞を連覇しているリボーのほうが上です。

テシオ氏は、ネアルコとりボーを生産したわけで、その天才馬産家がうかがえます。


リボーは、1957年7月に2歳でデビューします。

デビュー戦のトラムスキオ賞、2戦目のクリテルリウムナチオナーレをそれぞれ1馬身差、2馬身差で快勝したリボー・・・。

続く3戦目の伊グランクリテリウムでは、抑える競馬をし、自分の思うままに走れないリボーは、その影響から生涯最小着差のアタマ差の勝利をします。

以後、抑える競馬はせず、自分の思うままにリボーを走らせることになります。


年が明け、1955年に3歳となったリボーは、クラシック登録がないので、裏街道を進み、テシオ氏の悲願であった凱旋門賞制覇を目指します。

イタリアで、3歳の初戦、4戦目となるピサ賞を6馬身差で勝つと、エマヌエーレフィリベルト賞を10馬身差で勝ち、ブレンボ賞、べサナ賞では、後のイタリアのセントレジャーの勝ち馬・デレインにそれぞれ1馬身差、10馬身差をつけて勝利しました。

フランスに渡り、目標の凱旋門賞では、ボウプリンスに3馬身差をつける余裕の勝利を挙げています。

さらにイタリアに戻り、イタリアの大レース・ジョッキークラブ大賞で前年の勝ち馬・ノルマンに15馬身差の圧勝をしています。


1956年、4歳になったリボーは、イタリアで、グィリオヴェノ賞、ヴィチュオーネ賞、ガルバニャーテ賞とそれぞれ4馬身差、12馬身差、8馬身差で勝ち、イタリア最大の大レース・ミラノ大賞も8馬身差で圧勝しています。

競馬のレベルがヨーロッパでも低いといわれたイタリア・・・

そのイタリアの馬であるため、フランスで凱旋門賞を勝っているにもかかわれず、イギリスでリボーの評価が低いと知ると、イギリスへ渡り、キングジョージY&クイーンエリザベスステークスに出走しました。

このレースを当時の最大着差である5馬身差で勝つと、イギリスでのりボーの低い評価を覆しました。

この後、イタリアに戻り、ピアッツァレ賞を8馬身差で勝ちます。

そしてフランスへ渡り、2回目の凱旋門賞に臨み、豪華なメンバー(各国のクラシック馬やアメリカからの遠征馬)を相手に、後のシーバードと並ぶこのレースの最大着差の6馬身差で圧勝しています。

しかも馬なりのままで・・・。

着差の6馬身差も、もっと差があったといわれています。

16戦16勝の無敗、しかもほとんど圧倒的強さで勝ち続けました。


種牡馬となったリボーは、最初はイギリスへ渡り、次の年から2年間をイタリアで過ごし、リース契約でアメリカへ渡りました。

当初の契約では、5年間アメリカにリース契約の予定でしたが、アメリカへ渡っての環境の変化や加齢などのためか、若い頃の人懐っこさは影を潜め、気難しくなり、非常に扱いづらく、そのため保険の引き受け手が見つからず、5年間のリース契約は延長となり、アメリカにとどまることになりました。

リボーは種牡馬としても優秀で、同じテシオ氏の生産の大種牡馬・ネアルコを上回るとも・・・。

産駒は、主にヨーロッパで走りましたが、後継種牡馬、サイヤーラインなどは主にアメリカで成功をしています。

後への影響力では前述のようにネアルコが上回っており、ネアルコ系が大きく繁栄しています。

リボー系は、ネアルコ系の繁栄で少数派となりましたが、ネアルコ系に対抗しています。

凱旋門賞連覇は、その後、リボーの血を引き継ぐアレッジドが達成しています。
(アレッジドは、その父系を遡ると、ホイストザフラッグ〜トムロルフ〜リボー)

リボーの血統は、父方母方とも3代に渡ってテシオ氏の生産馬です。

テシオ氏は、自分の生産した種牡馬をあまり用いず、繁殖牝馬も牝系を育てる一方で、毎年購入し、めまぐるしく変えており、テシオ氏の生産馬ではリボーは、珍しいタイプです。

ある意味、リボーは、テシオ氏の集大成、血統の結晶といえる生産馬といえると思います。

テシオ氏の血統への考え、生産ビジョンは、難しく深遠だったといえます。

(この記事は、サイト「メインウェーブ」の「リボー」をそのまま転載したものです)

posted by keiba-meeting at 10:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 世界の名馬 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年10月01日

史上最強馬・シーバード

世界の競馬史上の最強馬はどの馬か・・・
時代背景や条件なども違い、難しい問いですが、私はフランスのシーバードを挙げます。

1960年代の馬ですがその強さは伝説的です。

シーバードは、フランスに生まれ、フランスで調教されたフランスの競走馬です。

自分たちの競馬に絶対の自信を持ち、プライドの高いイギリスでもシーバードは史上最強馬として認知されています。

イギリスのタイムフォーム誌によるレィテング・フリーハンデでは、史上最高の145ポンドが与えれれており、史上最強馬といわれることが多いです。

シーバードの父、ダンキューピッドは、ネイティヴダンサー産駒の二流のスプリンターで、母のシカラードも、未勝利馬で、近親に活躍馬のいない地味な血統で、シーバードの活躍の前に、食肉用にされています。

まさかこの地味な血統から史上最強馬が誕生するとは・・・。

シーバードは、2歳の1964年9月にデビューすると、デビュー戦を勝利し、続くクリテリウムドメゾンラフィットでも後の仏オークス馬・ブラブラらを下し、勝利し、仏グランクリテリウムに駒を進め、仏グランクリテリウムでは、同じ厩舎のグレイドーンの2着となります。

仏グランクリテリムは、後方からレースを進めたシーバードは逃げたグレイドーンをとらえきれませんでしたが、これは同じ厩舎のグレイドーンを勝たせるためだったともいわれています。

シーバードの2歳は、3戦2勝でした。


3歳の1965年4月にグレフェール賞を勝利したシーバードは、リュパン賞に出走し、ここも圧勝し、英ダービーへ進みます。

英ダービーで、シーバードは、他馬を子供扱いにする余裕の勝利をし、この勝利でシーバードは歴史的名馬とされます。

シーバードは、古馬と初対決となったサンクルー大賞を圧勝し、凱旋門賞へ向かいます。

この年の凱旋門賞は、稀に見るハイレベルで、出走メンバーは凱旋門史上最高レベルともいわれましたが、これらを相手にシーバードは、余裕の6馬身差の勝利をしました。

凱旋門賞史上最高レベルの相手に余裕の勝利をしたシーバードは完全に歴史的名馬といえます。

これらのパフォーマンスもあり、シーバードは史上最強馬といわれることが多いです。

この凱旋門賞が引退レースとなり、シーバードの戦績は、8戦7勝2着1回です。

1999年にエルコンドルパサーがサンクルー大賞を圧勝したときに、現地のメディアの中にシーバードになぞらえその強さ、凱旋門賞の有力候補ぶりをたたえたようですが、シーバードになぞらえるとはすごいですね。


種牡馬となったシーバードは、7年間アメリカにリースされた後の1972年の暮れにフランスに帰国し、フランスで種牡馬生活となるはずでしたが、翌年の1973年3月に腸閉塞で急死しました。

わずかな産駒の中で代表産駒にフランス牝馬3冠や凱旋門賞などを制したアレフランス、アメリカ2冠馬・リトルカレントなどがおり、シーバードの父系は、アークテックターンの産駒ベーリング(仏ダービー)とその直仔のベニカンプ(英2000ギニー)らに継承されています。

急死したシーバードの遺体は埋葬されることなく、母と同じく食肉用になったといわれています。

このことについては、イギリスなどで批判・非難されています。

史上最強馬といわれた馬の末路にしてはさびしさを感じます。


今後とも名馬・シーバードの血が継承されるといいですね。

(この記事はサイト「メインウェーブ」の「シーバード」をそのまま転載したものです)

(カテゴリー「世界の名馬」は、1951年生まれから2000年生まれの世界の名馬を扱っています)

posted by keiba-meeting at 17:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 世界の名馬 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする