2013年01月05日

栗毛の弾丸・マヤノトップガン

マヤノトップガンは菊花賞、有馬記念、天皇賞・春、宝塚記念と4つの大レースを制しました。
常に安定した強さを発揮したわけではありませんが勝った時の強さは本物でした。
まさに「栗毛の弾丸」でした。


▼履歴

▽誕生
マヤノトップガンは1992年(平成3年)3月24日に北海道新冠町の川上悦夫氏の牧場で誕生しました。
父が後の名種牡馬となるブライアンズタイム、母がアルプミープリーズです。

▽3歳
田所祐氏の所有馬として坂口正大厩舎に入厩したマヤノトップガンのデビューは3歳1月でした。

武豊騎手を背に1番人気に推されましたが、5着に敗れ、未勝利戦を連続2着、初勝利はデビューから4戦目の未勝利戦でした。
条件戦で2戦連続2着した後で7戦目に2勝目を挙げます。

ここまでで脚部の不安(ソエ)からダート戦を使ってきましたが、8戦目のロイヤルホンコンJTCから芝レースを使うようになります。
ロイヤルホンコンJTCは3着でしたが、続くやまゆりステークスで3勝目を挙げ、菊花賞を目指し、神戸新聞杯、京都新聞杯の菊花賞トライアルに臨み、連続2着で菊花賞に挑みます。

菊花賞では先行して直線抜け出し、トウカイパレスに1馬身1/4差をつけて前年にナリタブライアンがマークした菊花賞レコードを更新して優勝します。

続く有馬記念では菊花賞勝利がフロックと思われたのか6番人気の低評価でしたが、タイキブリザードに2馬身差をつけての逃げ切りでまたも優勝します。
このレースには前年にクラシック3冠と有馬記念を勝ったナリタブライアンも出走していましたが、本調子でなかったナリタブライアンは4着でした。

この菊花賞、有馬記念のGT2連勝でこの年の年度代表馬に選出されます。

▽4歳
マヤノトップガンの4歳緒戦は阪神大賞典でした。
このレースにはナリタブライアンも出走してきましたが、マヤノトップガンは前年の年度代表馬としてナリタブライアンを抑えて1番人気に推されました。
レースは直線でマヤノトップガンとナリタブライアンの激しい競り合いとなりました。
前年の年度代表馬(マヤノトップガン)と前々年の年度代表馬にして3冠馬(ナリタブライアン)との「意地」と「誇り」のぶつかり合いの最後はナリタブライアンがアタマ差出たところがゴールでした。
このレースで勝ったナリタブライアンはもちろん賞賛されましたが、惜しくも敗れたマヤノトップガンも多くの賞賛を受けました。
1996年の阪神大賞典・・・このレースはその後日本競馬史に残る名勝負といわれます。

阪神大賞典の「激走」を経て天皇賞・春に駒を進めたマヤノトップガンは、ナリタブライアンに続く2番人気に推され、レースもナリタブライアンとマヤノトップガンの一騎打ちと思われました。
しかし、レースではマヤノトップガンが直線で沈み5着、ナリタブライアンもサクラローレルに差し切られ2着に敗れます。

マヤノトップガンはこの後、宝塚記念に臨み、ナリタブライアンもサクラローレルもいないこのレースでサンデーブランチに1馬身1/2差をつけて快勝します。

一方でナリタブライアンは高松宮杯で5着に敗れた後、脚部に不安を発症し、引退します。

ナリタブライアンの引退によりマヤノトップガンのライバルは天皇賞・春で敗れたサクラローレルに絞られます。

秋にオールカマーでサクラローレルと2度目の対決となり、マヤノトップガンは1番人気に推されましたが、サクラローレルが快勝する中でマヤノトップガンは4着に敗れています。

天皇賞・秋ではサクラローレルが直線で進路が塞がり苦戦するのを尻目に直線でバブルガムフェローと接戦となりますが、1/2馬身及ばず2着に惜敗します。
サクラローレルは前述のように直線で前が塞がり、ゴール直前だけの競馬となり3着でした。

有馬記念ではサクラローレルに続く2番人気に推されたマヤノトップガンでしたが、サクラローレルの7着に敗れます。
サクラローレルはマーべラスサンデーに2馬身1/2差をつけての完勝でした。

▽5歳
5歳となったマヤノトップガンは阪神大賞典からスタートしますが、ここでこれまでの先行する競馬ではなく後方からの競馬で追い込み、ビッグシンボルに3馬身1/2差をつけて快勝します。

そして続く天皇賞・春はサクラローレルに雪辱する最後のチャンスといわれていました。
サクラローレルは秋に凱旋門賞挑戦のプランがあり、天皇賞・春が日本で走る最後のレースかもしれないといわれていました。
マヤノトップガンはサクラローレルに次ぐ2番人気に推されました。
有馬記念以来のレースとなるサクラローレルは掛かり気味にレースを進め、4コーナーで先頭をうかがう勢い・・・直線でマーべラスサンデーとの競り合いをサクラローレルが制したところで、後方待機で脚をためていたマヤノトップガンの「鬼脚」が爆発し、ゴール直前でサクラローレルを差し切り、優勝しました。
タイムは3分14秒4、ライスシャワーのレコードを3秒近く縮める驚異のレコードタイムでの決着でした。
しかしこの「激走」の代償は大きく、その後も現役を続けたもののレースに戻ることなく引退しています。

▽種牡馬として
プリサイスマシーン(スワンステークス、阪急杯、中日新聞杯2回)、チャクラ(ステイヤーズステークス、目黒記念)などを出し、まずまずの成功をしています。
今後は自身のような大物に期待です。

▽血統
マヤノトップガンにはナスルーラ5×4、ネアルコ5×5、Alibhai5×5のインブリードがあります。
父ブライアンズタイムはマヤノトップガンの他に3冠馬・ナリタブライアンを筆頭に多くのGT勝ち馬を出している名種牡馬です。
代表産駒のナリタブライアンの早世は残念でしたが、タニノギムレット(日本ダービー)は64年ぶりの牝馬の日本ダービー馬・ウオッカを出しています。
母アルプミープリーズは輸入馬で、弟にパリ大賞を勝ったスィンクがいます。

▼マヤノトップガンの特徴
マヤノトップガンは常に安定した強さを発揮したわけではありませんが、勝つときの強さには驚くものがありました。

菊花賞、有馬記念、天皇賞・春、宝塚記念と4つのGTを制しており、先行抜け出し(菊花賞)、逃げ切り(有馬記念)、4コーナー先頭(宝塚記念)、直線強襲(天皇賞・春)と全て違う脚質で優勝しています。
「自在の脚質」だったといえるかもしれません。

(この記事は、サイト「メインウェーブ」の記事「マヤノトップガン」をそのまま転載したものです)

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遅れてきた最強馬・サクラローレル

サクラローレルは故障に悩まされながら、有馬記念、天皇賞・春を勝った名馬です。
脚元の不安から完調で活躍した時期は短かったものの、同期の3冠馬・ナリタブライアンを差し切った5歳時の天皇賞・春、マーべラスサンデー以下に完勝した5歳時の有馬記念のレース内容は現役最強馬といってよい強さを発揮したと思います。
2着に敗れたものの6歳時の天皇賞・春のレース内容も「負けてなお強し」を印象付けました。


▼履歴

▽誕生
サクラローレルは1991年(平成3年)5月8日に北海道静内町の谷岡牧場で生まれました。
父が凱旋門賞馬・レインボウクエスト(1着入線のサガスの降着で繰り上がり優勝)で、母はフランスでサクラローレルのオーナーでもあった全演植氏の持ち馬として走り、現役引退後にサクラローレルをお腹に宿し日本に輸入されました。
サクラローレルはいわゆる持込馬になります。

▽3歳
株式会社さくらコマースの所有馬として境勝太郎厩舎に入厩したサクラローレルは、3歳1月にデビューします。
デビューの新馬戦で9着、2戦目の新馬戦も3着で初勝利は3戦目の未勝利戦でした。
春菜賞、500万下と6着、2着、続く500万下で2勝目を挙げ、さらに青葉賞で3着となり日本ダービーの出走権を得ますが、脚部不安で日本ダービーを回避しています。
秋に復帰し、佐渡ステークス3着、菊花賞を目指しセントライト記念に出走するも8着、その後は条件特別で2着、2着を続けた後で連勝し3歳のシーズンを終えます。

▽4歳
4歳緒戦の金杯・東で重賞初制覇をしますが、続く目黒記念ではハギノリアルキングの2着に敗れます。
天皇賞・春に向けて調教されますが、調教中に両前脚を骨折、安楽死も検討されるほどの重傷でしたが、関係者の努力で安楽死は避けられ、治療のために長期休養に入ります。

▽5歳
5歳春に中山記念で復帰したサクラローレルはそれまでの主戦騎手だった小島太騎手の引退、調教師転進で、主戦騎手に横山典弘騎手を迎えての再出発でした。
レースでジェニュイン以下に快勝したサクラローレルは天皇賞・春に駒を進めます。

天皇賞・春ではナリタブライアン、マヤノトップガンに続く3番人気でしたが、ナリタブライアンとマヤノトップガンの一騎打ちムードで離れた3番人気でした。
しかしレースでは直線でナリタブライアンを2馬身1/2差で差し切り優勝をしています。
マヤノトップガンは直線で沈み5着でした。
同期の3冠馬(ナリタブライアン)を下したことによる「王者交代」の瞬間でした。
サクラローレルは秋まで休養に入ります。
(天皇賞・春の後、ナリタブライアンは高松宮杯で5着となりその後に故障で現役引退、マヤノトップガンは宝塚記念を優勝しています)

秋にオールカマーから始動したサクラローレルは1番人気をマヤノトップガンに譲るものの、レースではファッションショー以下に快勝、マヤノトップガンは4着でした。

天皇賞・秋に1番人気で臨んだサクラローレルでしたが、スタートで出遅れた上、直線で内に包まれ、あきらかに脚を余してバブルガムフェロー、マヤノトップガンに続く3着に敗れます。
このレースは騎乗した横山弘騎手の「騎乗ミス」を認めており、境調教師もこの騎乗ミスに激怒したといわれます。

有馬記念に「必勝」を期して臨んだサクラローレル陣営・・・1番人気に応えてマーべラスサンデーに2馬身1/2差をつけて完勝します。
2番人気に推されていたマヤノトップガンは7着に沈んでいます。
天皇賞・春と有馬記念を制したサクラローレルはこの年の年度代表馬に選出されます。
サクラローレル陣営は翌年の天皇賞・春のレースいかんでは凱旋門賞挑戦をすることを発表します。

▽6歳
天皇賞・春は軽い骨折の影響で、ぶっつけ本番となりますが、ファンはサクラローレルを1番人気に推します。
凱旋門賞挑戦も視野に入れたサクラローレルとマヤノトップガン、マーべラスサンデーが「3強」といわれていました。
レースでは有馬記念以来の久々のためかサクラローレルは掛かり気味にレースを進めます。
3コーナーで早くも先頭をうかがう勢いのサクラローレルは直線で先頭に立ち、満を持してサクラローレルに競りかけたマーべラスサンデーを競り落とすものの、ゴール寸前でマヤノトップガンの当時の世界レコードとなる3200メートル3分14秒4、上がり3ハロン34秒2の「鬼脚」に1馬身1/4差で敗れて2着となります。
しかしサクラローレル自身も3コーナーからロングスパートしながら上がり3ハロン35秒0を記録しており、休み明けを3分14秒6のタイムで駆けています。
このレース内容は完璧なレースをしながら競り負けたマーべラスサンデー陣営に「ローレルは化け物だ」「あの馬とは何度やっても勝てない」といわせ、勝ったマヤノトップガン陣営さえも「勝ったのはウチの馬(マヤノトップガン)、でも一番強い競馬をしたのは(サクラ)ローレル」といったといわれます。
マヤノトップガンの世界レコードで駆け抜けた鬼脚はもちろん見事でしたが、サクラローレルのレース内容も「負けてなお強し」を思わせました。
2着に敗れたものの天皇賞・春での「負けてなお強し」のレース内容からサクラローレル陣営は凱旋門賞への挑戦を決意します。

フランスに渡ったサクラローレルは凱旋門賞へのステップレースとしてフォア賞に出走します。
1番人気に推されたサクラローレルでしたが、レース中の故障により8着に敗れます。
父が制した凱旋門賞を前に故障により現役を引退することになります。

▽種牡馬として
種牡馬となったサクラローレルは初年度からローマンエンパイア(京成杯)を出し、その後もサクラセンチュリー(日経新春杯、アルゼンチン共和国杯、鳴尾記念)などを出して、まずまずの成功とはいえますが、まだ自身のような大物は輩出していません。
今後は自身のような大物に期待です。

▽血統
父レインボウクエストは繰り上がりながら凱旋門賞を制しており、父系のレッドゴッド系は元々はスピード色の強い短距離血統ながら代を経て距離への融通性を強め、祖父のブラッシングルーム、父のレインボウクエストからは中長距離の大レースで実績を挙げている産駒が出ています。
母ローラローラはフランス産馬で、母系からはサクラローレルのいとこにジャパンカップダートなどを勝ったタイムパラドックスがおり、リュパン賞を勝ち種牡馬としても成功したグルームダンサーもこの母系から出ています。
サクラローレルにはナスルーラ4×5のインブリードがあります。

▼特徴
サクラローレルは脚部不安のため古馬になってから頭角を現しました。
大レースは天皇賞・春と有馬記念の2つだけですが、ナリタブライアン、マヤノトップガンを相手に示したその強さは日本競馬史上屈指だったと思います。

(この記事は、サイト「メインウェーブ」の記事「サクラローレル」をそのまま転載したものです)

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2012年12月12日

グランプリ3連覇の怪物・グラスワンダー

グラスワンダーは3歳時に有馬記念、4歳時に宝塚記念と2度目の有馬記念に勝ち「グランプリ3連覇」を果たした名馬です。
その強さから「怪物」といわれ、同期のエルコンドルパサー、スペシャルウィークとともに「3強」を形成しました。


▼履歴

▽誕生
グラスワンダーはアメリカで生まれ、キーランドのセプテンバーセールで、日本のJRAの尾形充弘調教師に見出され、半沢有限会社の社長だった伊藤純一氏に落札されました。
グリーングラスは日本に輸入され日本で競走生活を送ることになります。

▽2歳
半沢有限会社の所有馬として尾形充弘厩舎に入厩したグラスワンダーは2歳9月の中山競馬場の新馬戦でデビューすると3馬身差の快勝、アイビーステークス、京成杯3歳ステークス(馬齢旧表記、現在の2歳)と楽勝の内容でデビュー以来3連勝で朝日杯3歳ステークス(馬齢旧表記、現在の2歳)に臨みます。

朝日杯3歳ステークスでは、1分33秒6の驚異のレースレコードで圧勝してフジテレビの実況の三宅正治アナウンサーが「マルゼンスキーの再来です!」と絶叫する圧倒的パフォーマンスを示します。
この頃にはアメリカ遠征も関係者が視野に入れていたといわれます。

▽3歳
グラスワンダーは「外国産馬」のため当時はクラシックに出走できませんでした。
そのため春の目標をNHKマイルカップに定め、その前哨戦としてニュージーランドトロフィー4歳ステークス(馬齢旧表記、現在の3歳)へ参戦するための調教が進められていました。
しかしレースの目前に骨折により休養を余儀なくされます。

復帰戦は毎日王冠で、このレースには宝塚記念を制した稀代の快速馬・サイレンススズカとグラスワンダーの春の目標であったNHKマイルカップを制したグラスワンダーと同じ「外国馬」のエルコンドルパサーも出走していました。
驚異の逃げ脚で圧勝を続けていたサイレンススズカと無敗の外国産馬であったエルコンドルパサーとグラスワンダーの出走で毎日王冠はGUにも関わらずGT並みの盛り上がりを見せました。
レースはサイレンススズカの圧倒的逃げ切り勝ちとなり、グラスワンダーは故障明けの久々とサイレンススズカを負かしにいった積極的レースぶりがたたったのか5着に敗れます。
一方のエルコンドルパサーは直線でサイレンススズカとの差を少し縮めたものの2馬身1/2差の2着、毎日王冠はサイレンススズカの圧勝に終わっています。

続くレースにアルゼンチン共和国杯を選んだ(当時の外国産馬は天皇賞・秋にも出走不可)グラスワンダーでしたが、またも6着に敗れます。

続いて暮れの有馬記念に臨んだグラスワンダーは4番人気に推されます。
レースでは2冠馬セイウンスカイ、女傑エアグルーヴ、天皇賞・春の優勝馬メジロブライとらを相手に快勝します。
グラスワンダーは外国産馬では初、史上最短のレースキャリアで有馬記念を制覇します。

▽4歳
古馬となったグラスワンダーは当初のサンケイ大阪杯から始動の予定を馬房で暴れたケガで回避するアクシデントがあり、京王杯スプリングカップからのスタートとなりましたが、レースではエアジハード以下に快勝します。

しかし安田記念では、道中で他馬と接触するアクシデントもあり、エアジハードの強襲にハナ差の2着と敗れます。

続く宝塚記念では前走で天皇賞・春を制した同期の日本ダービー馬であるスペシャルウィークとの初対決に注目が集まりました。
1番人気をスペシャルウィークに譲ったもののレースではスペシャルウィークに3馬身差をつけて圧勝します。
このレース結果にスペシャルウィーク陣営は凱旋門賞挑戦プランを白紙撤回します。

秋に毎日王冠をハナ差のきわどい差ながら勝利すると、連覇を目指し有馬記念に臨みました。

有馬記念に1番人気で臨んだグラスワンダーは、スペシャルウィークの強襲をハナ差で凌ぎ、有馬記念連覇、グランプリ3連覇(3歳時の有馬記念、4歳時の宝塚記念、有馬記念)を達成します。
ゴール前では首の上げ下げのきわどい勝負で、「勢い」ではスペシャルウィークでしたが、「勝負」はグラスワンダーが制しました。
この年の年度代表馬はエルコンドルパサーで、グラスワンダーはスペシャルウィークとともに特別賞に選出されています。

▽5歳
5歳となったグラスワンダーは日経賞6着、京王杯スプリングカップ9着と2戦続けて着外に沈み、グランプリ4連覇を目指した宝塚記念でもテイエムオペラオーの6着に敗れ、このレースで骨折をし、視野に入れていた海外遠征も実現されること無くこのレースを最後に引退しています。

▽種牡馬として
種牡馬となったグラスワンダーは重賞勝ち馬をコンスタントに出しまずまずの成績です。
スクリーンヒーローがジャパンカップを勝つなど大物も出てはいます。
今後も注目です。

▽血統
父シルヴァーホークはブライアンズタイムやリアルシャダイらと同じロベルト系です。
グラスワンダーの全妹にはアメリカでGTを2勝したワンダーアゲインがいます。
グラスワンダーは5代血統内にネアルコ4×5、ネイティブダンサー5×5のインブリードがあります。

▼特徴
グラスワンダーは前述の通り2歳時の朝日杯3歳ステークス(馬齢旧表記、現在の2歳)の驚異的レコードタイムやグランプリ3連覇により「怪物」といわれました。

▼最強世代
グラスワンダーの同期はエルコンドルパサー(サンクルー大賞、ジャパンカップ、凱旋門賞2着)、スペシャルウィーク(日本ダービー、ジャパンカップ、天皇賞・春、天皇賞・秋)の他にもアグネスワールド(ジュライカップ、アベイ・ド・ロンシャン賞)、エアジハード(安田記念、マイルチャンピオンシップ)、マイネルラヴ(スプリンターズステークス)、キングヘイロー(高松宮記念)、ウイニングアロー(ジャパンカップダート、フェブラリーステークス)がおり、クラシック2冠馬セイウンスカイも含めレベルの高い近年の「最強世代」といえると思います。

(この記事は、サイト「メインウェーブ」の記事「グラスワンダー」をそのまま転載したものです)

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最強世代の日本ダービー馬・スペシャルウィーク

スペシャルウィークは3歳時に日本ダービー、4歳時にジャパンカップと天皇賞の春秋連覇を果たした名馬です。
3歳時にジャパンカップを勝ち、4歳時にフランスでサンクルー大賞を制し、世界最高峰のレースである凱旋門賞でも2着となったエルコンドルパサー、グランプリ3連覇(3歳時に有馬記念、4歳時に宝塚記念、有馬記念を制覇)のグラスワンダーと同世代です。
スペシャルウィークはこの「最強世代」で「3強」の一角を占めました。


▼履歴

▽誕生とエピソード
スペシャルウィークは1995年(平成7年)4月19日に北海道門別町の日高大洋牧場で生まれました。

父が日本の競馬を根底から変えたといわれる大種牡馬・サンデーサイレンス、母のキャンペーンガールは未出走ですが日本有数の名牝系であるシラオキ系でこの牝系を更に遡ると小岩井農場の名牝・フロリースカップに繋がります。

母のキャンペーンガールはスペシャルウィークを生んだ5日後に死去しており、スペシャルウィークは人の手を介して育てられました。
そのためか激しい気性が多いサンデーサイレンス産駒ながらスペシャルウィークはおとなしく人懐こい性格をしていたといわれます。
騎手を信用する素直なレースはこのことが原因なのかもしれません。

▽2歳
臼田浩義氏の所有馬として白井寿昭厩舎に入厩したスペシャルウィークは2歳11月の阪神競馬場の新馬戦でデビューすると2着に2馬身差をつけて快勝します。

▽3歳
年明けに白梅賞では2着と敗れますが、重賞のきさらぎ賞に出走すると2着に3馬身1/2差をつけて快勝、さらに東上し弥生賞でも後の皐月賞馬・セイウンスカイに1/2馬身差をつけて勝ち、クラシックの有力候補となります。

クラシック1冠目皐月賞に1番人気で臨んだスペシャルウィークでしたが、セイウンスカイの3着と敗れます。

2冠目の日本ダービーでは1番人気に応えて2着のボールドエンペラーに5馬身差をつける圧勝をします。
(このレースは鞍乗の武豊騎手にとって初の日本ダービー制覇となりましたが、直線で追い通しで、しかもムチを落としています、名手・武豊騎手にとっても日本ダービー制覇は特別だったのかもしれません)

秋に神戸新聞杯を快勝すると3冠目の菊花賞に1番人気で臨みます。

しかし菊花賞のレースでは当時の世界レコードで駆けたセイウンスカイの逃げの前に2着に敗れます。

スペシャルウィークはこの後ジャパンカップに挑戦し、外国産馬(当時の規定で外国産馬はクラシックや天皇賞には出走できなかった)ながら同期のエルコンドルパサー、牝馬ながら前年の天皇賞・秋を制したエアグルーヴの3着に敗れます。
(翌年はエルコンドルパサーがフランスに渡ったため、スペシャルウィークとの対決はこの1戦のみです)
このレースはエルコンドルパサーの完勝であり、この勝利によりフランス遠征が決まりました。

▽4歳
古馬となったスペシャルウィークはアメリカジョッキークラブカップを完勝すると阪神大賞典でも前年の天皇賞・春を勝ったメジロブライトに3/4馬身差をつけて連勝し、1番人気で天皇賞・春に臨みます。

天皇賞・春ではメジロブライト、セイウンスカイとともに「3強」といわれたスペシャルウィークは、メジロブライトに1/2馬身差をつけて優勝します。
セイウンスカイは3着でした。

続く宝塚記念でエルコンドルパサー(前年のジャパンカップ優勝)とともに外国産馬の強豪といわれたグラスワンダー(前年の有馬記念優勝)と初対決となります。
この対決はグラスワンダーがスペシャルウィークに3馬身差をつけて完勝します。
3着のステイゴールドはさらに7馬身差だったので、グラスワンダーとスペシャルウィークの力が抜けていたともいえますが、グラスワンダーとの3馬身差はスペシャルウィークにとって完敗だったといえます。
フランスでのエルコンドルパサーの活躍(芝2400メートルのGT・サンクルー大賞優勝の快挙)で凱旋門賞挑戦プランを掲げ宝塚記念を壮行レースと考えたスペシャルウィーク陣営もこの敗戦により上記のプランを白紙撤回としました。

秋緒戦の京都大賞典では生涯唯一の着外となるまさかの7着に敗れます。

続く天皇賞・秋では前走の敗戦と大幅の馬体重減(マイナス16キロ、ただし陣営は予定の絞り込みだったようです)で4番人気となります。
しかしレースではステイゴールドをクビ差抑えて優勝、天皇賞の春秋連覇を達成します。

ジャパンカップではこの年の凱旋門賞でエルコンドルパサーを破ったモンジューやその凱旋門賞に出走していたボルジア、タイガーヒルも参戦しましたが、スペシャルウィークがインディジェナスに1馬身1/2差をつけて快勝しています。
モンジューは4着でした。

引退レースとなった有馬記念ではグラスワンダーに続く2番人気で臨みます。
後方からレースを進めたスペシャルウィークはゴール前でグラスワンダーを捉えたかに見えましたが写真判定でハナ差でグラスワンダーの優勝となりました。
首の上げ下げのわずかの差であり、勢いではスペシャルウィークがゴール前差したかに見えましたが、結果はハナ差の惜敗で「競馬に勝って勝負に負けた」レースとなりました。
この結果はこの年の年度代表馬選出にも影響を及ぼすことになります。

▽1999年の年度代表馬選出
この年の年度代表馬候補はスペシャルウィーク、エルコンドルパサー、グラスワンダーでした。

スペシャルウィーク
ジャパンカップ、天皇賞・春、天皇賞・秋
JRAのGT3勝

エルコンドルパサー
サンクルー大賞、凱旋門賞2着
フランスのGT1勝、世界最高峰のレース・凱旋門賞で2着の快挙

グラスワンダー
有馬記念、宝塚記念
JRAのGT2勝、その2勝はともにスペシャルウィークを下したもの

記者投票ではスペシャルウィークが1位となったものの過半数に至らず、審議委員による2位のエルコンドルパサーとの決戦投票となり、エルコンドルパサーが年度代表馬となりました。

この結果は大きな論議を呼びました。
エルコンドルパサーはこの年フランスで競走生活を終えており、サンクルー大賞優勝、凱旋門賞2着の歴史的快挙があるものの、JRAのレースには出走していません。
スペシャルウィークのJRAのGT3勝を評価すべきか、エルコンドルパサーの海外の快挙を評価すべきか、さらにいえばスペシャルウィークに直接対決で2戦2勝のグラスワンダーの評価は・・・といったところが議論の的となりました。

エルコンドルパサーの海外での快挙は本当に素晴らしいものです。
しかしこの年の「JRAのレース」での主役はスペシャルウィークだったかもしれません。
年間を通じて活躍し、GT5戦3勝2着2回を記録した実績がそれを物語っています。

(個人的には「世界の競馬」に目を向けた場合、エルコンドルパサーの年度代表馬選出は「あり」と考えます)

▽種牡馬として
スペシャルウィークは日米のオークスを制したシーザリオ(オークス、アメリカンオークス)、日本ダービー2着、京都新聞杯などを勝ったインティライミを出し、すでに成功しています。
サンデーサイレンス産駒ではダンスインザダーク、アグネスタキオン、ディープインパクトとともに最も注目されている種牡馬といえるかもしれません。
今後にも期待です。

▽血統
父は日本の競馬を根底から変えたといわれるサンデーサイレンス、母のキャンペーンガールは未出走ながら日本有数の名牝系のシラオキ系で更に牝系を遡ると小岩井農場の名牝・フロリースカップに繋がります。
スペシャルウィークの5代血統にインブリードはなく、それでいてシアンモア、ダイオライト、プリメロ、ヒンドスタン、セントクレスピン、マルゼンスキー、サンデーサイレンスと日本の生産界を支えた種牡馬が配合されており、フロリースカップから繋がる名門牝系をバックアップしています。
日本に根付いた牝系に日本の生産界を支えた種牡馬を代々配合したアウトブリード血統のスペシャルウィークは注目です。

▽特徴
スペシャルウィークは前述の通り、激しい気性を受け継ぐことが多いサンデーサイレンス産駒には珍しい穏やかな性格だといわれます。
騎手を信頼する素直なレース振りはこの穏やかな性格ゆえかもしれません。
さらにスペシャルウィークの強さは突出した一部の能力というよりあらゆる点で水準以上を示すトータルバランスにあるのかもしれません。

(この記事は、サイト「メインウェーブ」の記事「スペシャルウィーク」をそのまま転載したものです)

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2012年12月11日

完全無欠の王者・テイエムオペラオー

テイエムオペラオーは、1996年に生まれ、父オペラハウス母ワンスウエド(父ブラッシングルーム)という血統です。

父オペラハウスは、ノーダンダンサー系の大種牡馬・サドラーズウェルズ産駒、母ワンウェドは、アメリカからの輸入繁殖牝馬で、姉にCBC賞2着のチャンネルフォーがいます。また近親には、ブリーダーズカップ・マイルを制したコジーンなどがいます。


テイエムオペラオーは、1998年、2歳8月に京都競馬場でデビューし、デビュー戦2着、その後骨折により休養に入り、翌年1999年1月に復帰し、4着、初勝利は3戦目でした。

その後、条件特別を勝つと、さらに毎日杯で重賞初制覇をしました。

しかしテイエムオペラオーは、クラシックの第一次登録をしていなかったため、クラシック第1弾のクラシックである皐月賞には追加登録料を支払って出走しました。

そして皐月賞を直線一気の競馬で優勝しました。

テイエムオペラオーは追加登録料を支払っての初のクラシック制覇となりました。


その後、日本ダービーに出走し、アドマイヤベガの3着、休養後に秋に古馬も出走する京都大賞典3着、菊花賞ではナリタトップロードの3着、ステイヤーズステークスでも2着と勝ちきれない競馬が続き、暮れの有馬記念に臨みます。

有馬記念ではグラスワンダー、スペシャルウィークに続く3着となり、勝てなかったものの翌年への飛躍を予感させました。


2000年はテイエムオペラオーの年となりました。

京都記念、阪神大賞典を連勝すると天皇賞・春に臨み優勝し古馬の頂点に立ち、続く宝塚記念では、この後ライバル関係を長く続けることになるメイショウドトウにクビ差で優勝しました。

この後、秋まで休養したテイエムオペラオーは京都大賞典でナリタトップロードをアタマ差抑え、優勝しました。

天皇賞・秋では再びメイショウドトウ以下に勝ち、天皇賞の春秋連覇を達成し、ジャパンカップでもメイショウドトウ以下に快勝、暮れの有馬記念でもメイショウドトウ以下を退けて優勝しました。

テイエムオペラオーはこの年8戦全勝、重賞8連勝をし、天皇賞・春、宝塚記念、天皇賞・秋、ジャパンカップ、有馬記念と年間GT5勝で当然のごとく年度代表馬に選出されました。

古馬の出走しえる中長距離の大レースを完全制覇したことになります。


翌2001年は大阪杯でトーホーカムリの4着と敗れ、連勝がストップしましたが、続く天皇賞・春で再びメイショウドトウ以下に快勝し、シンボリルドルフに並ぶGT7勝を達成しました。

メジロマックイーン以来の天皇賞・春連覇、さらに史上初の天皇賞の春秋春の3連覇の大記録です。
 
宝塚記念では直線の不利もあり、メイショウドトウに敗れ2着となり休養に入ります。


秋に京都大賞典で復帰したテイエムオペラオーは2着入線ながら、1着入線したステイゴールドが直線での斜行により失格となり、繰上げで優勝となりました。

優勝はしたものの、かつての強さにかげりを感じさせたテイエムオペラオーは、天皇賞・秋でアグネスデジタルの2着、ジャパンカップでもジャングルポケットの2着と敗れ、引退レースとなった有馬記念でもマンハッタンカフェの5着と敗れました。

5歳秋は4戦1勝、そしてその1勝も繰り上げによる勝利という王者終焉を感じさせるラストダンスとなりました。


テイエムオペラオーは、平均的サラブレッドと比較し、心拍数が低く、心臓が大きいようで、同馬の強さにつながっているようです。

同馬の強さについて、科学的にも証明されたようです。

先行抜け出し、差しなど幅広いレースができます。

テイエムオペラオーの脚質は自在といっていいかもしれません。

テイエムオペラオーは、一流馬には、一流の騎手を騎乗させる傾向のある現代競馬で、デビューから引退まで若手であった和田竜二騎手が騎乗し続けました。

一度、菊花賞の敗北に激怒したオーナーサイドで、調教師に騎乗騎手変更を迫りましたが、調教師は和田竜二騎手を変更せず、騎乗させ続けました。

テイエムオペラオーは、「3冠を獲れる器」ともいわれたようで、和田竜二騎手の騎乗技術への批判もあるようです。

テイエムオペラオーは、ジンクスに強い馬で、当時荒れるといわれる天皇賞・秋(2000年)に優勝したり、同じくジャパンカップ(2000年)の優勝で、1番人気の連敗記録を止めたりしました。

本当に強い馬にはジンクスは関係ないのかもしれません。


テイエムオペラオーはGT7勝などの実績を考えると評価が低い感じもします。

テイエムオペラオーは接戦が多く派手な勝ち方が少ない、3歳時に有馬記念で1歳上の世代のグラスワンダー、スペシャルウィークに後塵を拝し、5歳秋にもジャングルポケットなどの1歳下の世代に後塵を拝したことから「恵まれた世代の最強馬」との評価もあるようです。

グラスワンダー、スペシャルウィーク、さらにエルコンドルパサーのいたテイエムオペラオーの1歳上の世代は確か近年でも最強世代といえるかもしれません。

テイエムペラオーが本格化前の3歳秋だったとはいえ後塵を拝しています。

かげりの見えた5歳秋も1歳下の世代に後塵を拝しました。

しかし、4歳の年間8戦全勝、GT5勝は評価すべきでしょう。

競馬はレコードタイム勝ちや派手な勝ち方だけが強さを評価するファクターではなく、4歳でのテイエムオペラオーの充実振り、安定感、強さは最強馬の候補として評価してもいいと思います。

テイエムオペラオーは現役時代の戦績が評価され、「JRA顕彰馬」に選出されています。


競走馬を引退し、種牡馬となったテイエムオペラオー・・・産駒は、障害戦に強く、東京ハイジャンプなどを勝ったテイエムトッパズレや東京ハイジャンプを勝ったテイエムエースなどがいます。

テイエムオペラオーの父は前述のようにオペラハウスで、オペラハウスの父は、ヨーロッパの至宝・サドラーズウェルズです。

日本の軽い馬場はサドラーズウェルズ系に合ってるとはいえないかもしれませんが、こうした中でテイエムオペラオーだけでなく、2006年の2冠馬メイショウサムソンも出している(2006年11月現在)オペラハウスは注目されますし、その代表産駒であるテイエムオペラオーも種牡馬として注目です。

ある意味、テイエムオペラオーは「(圧倒的)強さを感じさせない強さを持つ名馬」といえるのかもしれません。

(この記事は、サイト「メインウェーブ」の記事「テイエムオペラオー」をそのまま転載したものです)

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2012年11月14日

怪物2世、競馬ブームの立役者・オグリキャップ

オグリキャップは、1985年に生まれ、父ダンシングキャップ母ホワイトナルビー(父シルバーシャーク)という血統です。、
スピード血脈を強調したスプリンターが出てもおかしくない血統で、オグリキャップは、2000メートル以上にも勝利しています。
(時にとんでもない大物を出すネィテイヴダンサー系だからかもしれません)

オグリキャップは元々、地方の笠松で走らせており、クラシック3冠(皐月賞、日本ダービー、菊花賞)に2歳時点で登録がなく、クラシック3冠に出走する権利がありませんでした。(現在は、規則緩和)

オグリキャップは絶大な人気があり、競馬ブームの立役者といってよいかもしれません。


地方の笠松でデビューしたオグリキャップは、2〜3歳春まで、12戦10勝、2着2回の成績を引っさげて、中央競馬入りをします。

一部には「ハイセイコー以来の怪物」の声もあがりましたが、実力未知数という意見が大半でした。

しかし、中央緒戦のペガサスステークスで、断然1番人気のラガーブラックに3馬身差をつけて快勝すると、クラシック登録のないオグリキャップは、裏街道で、毎日杯、京都4歳特別(馬齢旧表記、現在は3歳)、ニュージーランドトロフィー4歳ステークス(馬齢旧表記、現在は3歳)、高松宮杯と連勝を重ねていきます。

秋に天皇賞・秋の前哨戦の毎日王冠でさらに連勝を重ねると、オグリキャップの前に1頭の馬が立ちはだかります。

タマモクロスです。


オグリキャップより1歳上で、同じ芦毛(若い時は、黒っぽい白の毛色、年を経ると真っ白になる)のタマモクロスは、3歳秋から頭角をあらわし、連勝を重ね、天皇賞・春、宝塚記念まで一気に駆け上がった馬で、天皇賞・秋での春秋連覇がかかっていました。

一方、オグリキャップも地方からの怪物として連勝を重ねており、2頭の芦毛対決が注目を集めました。

レースは、タマモクロスがオグリキャップを振り切って勝っています。

連勝がストップしたオグリキャップは、続くジャパンカップに雪辱を期します。

レースは、アメリカのペイザバトラーがタマモクロス、オグリキャップ以下を従えて優勝しました。

直接対決でタマモクロスに2連敗のオグリキャップは、次走の有馬記念に進みます。

有馬記念での引退を決めているタマモクロスを倒すチャンスは、このレースを逃すと雪辱の機会がないオグリキャップは、鞍乗に名手・岡部幸雄騎手を配し、優勝、2着はタマモクロス、ついにタマモクロスに雪辱するのです。


4歳のオグリキャップの緒戦は、休養中の脚元の不安もあり、秋のオールカマーでした。

オールカマーを圧勝すると、続く毎日王冠で混戦を制し、本命として天皇賞・秋に臨みます。

しかし、武豊騎乗のスーパークリークに惜敗してしまいます。

この後のローテーションは、通常であれば、ジャパンカップと思われましたが、マイルチャンピオンシップ、ジャパンカップと連闘で臨むことになります。(オーナーサイドの事情といわています)

マイルチャンピオンシップで、バンブーメモリーとの直線の激しい叩きあいをハナ差で制したオグリキャップは、先にお話したとおり、そのまま連闘でジャパンカップの舞台に立ちます。

オグリキャップは、連闘の疲れを感じさせぬみごとな走りをみせますが、ニュージーランドのホーリックスの世界レコードでの激走の前に同タイムの2着と惜敗します。

この年最後のレース・有馬記念でオグリキャップは5着に敗れます。

敗因の一つに、過酷なローテーションがあったことは間違いないでしょう。


5歳の緒戦でいきなり安田記念に臨んだオグリキャップは、平成の天才・武豊騎手を背にした「夢の共演」を実現させ、自身も「怪物」ぶりを発揮し、快勝。

しかし、宝塚記念で鞍乗の変わったオグリキャップはオサイチジョージに3馬身半の「謎の完敗」をします。

さらに鞍乗をベテランの名手に変えて臨んだ秋の2レースも天皇賞・秋6着、ジャパンカップ11着と惨敗します。

「オグリキャップは終わった・・・」と誰もが思ったことでしょう。

オグリキャップは、続く有馬記念を引退レースと定め、鞍乗に安田記念以来の武豊騎手をすえて再度の「夢の共演」で引退に華を添えようとしました。

もちろん、勝つにこしたことはありませんが、勝ち負けを狙うというよりも、最後は最高の騎手を乗せて舞台を整える意味合いのほうが強かったはずです。


しかし、天才と怪物は、奇跡を起こします。

ここ3戦、特に直前の2戦の惨敗が信じられないくらいのレース運びでメジロライアン以下に快勝します。

競馬予想家・大川慶次郎氏の「ライアン、ライアン」の声が実況に入った、「あのレース」です。

オグリコールに包まれて感動のウイニングランを飾ったのです。


種牡馬としては、目立った産駒は残していません。

2010年7月3日にオグリキャップは、死亡しています。


オグリキャップは、地方から中央入りした経緯からハイセイコーのように「怪物」と呼ばれ、アイドルホースとして、絶大な人気を博しました。

オグリキャップで印象の残っているレースは、マイルチャンピオンシップでのバンブーメモリーとの激闘から連闘で臨んだジャパンカップです。

このレースで世界レコードで勝ったホーリックスに食い下がったオグリキャップの激走は、連闘で臨んだこともあわせ、驚異的でした。

(この記事は、サイト「メインウェーブ」の記事「オグリキャップ」をそのまま転載したものです)



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白い稲妻の遺伝子・タマモクロス

タマモクロスは、1984年に生まれ、父シービークロス母グリーンシャトー(父シャトーゲイ)という血統です。
父は、強烈な末脚と芦毛の馬体から「白い稲妻」といわれたシービークロスです。
タマモクロスは稲妻の遺伝子を引き継いだといえます。
タマモクロスの半妹にエリザベス女王杯を制したミヤマポピー(父カブラヤオー)がいます。


タマモクロスは、見栄えにしない仔馬でした。

そして、生まれた牧場も後に残念ながら倒産してしまいます。

3歳3月にデビューしたタマモクロスは、3戦目に初勝利を挙げたものの他馬を怖がる臆病な馬のため、秋まで1勝のままでした。


10月の条件戦で2勝目を挙げます。

2着に7馬身差をつける圧勝で、続く条件特別でも楽勝し、一躍「菊花賞の秘密兵器」といわれます。

しかし、タマモクロス陣営は菊花賞には行かず、鳴尾記念に臨みます。

ここでも驚くべき強さを見せ、「もしかすると現役最強馬はタマモクロスでは?」との声も聞かれるようになりなります。

4歳になったタマモクロスは、金杯を後方から物凄い末脚で快勝すると、阪神大賞典でも逃げたダイナカーペンターと1着を分け合い、5連勝で天皇賞・春に駒を進めます。

天皇賞・春でも危なげない勝ち方をし、宝塚記念でも当時の中距離最強馬のニッポーテイオーに快勝し、日本競馬の頂点に立ちます。


秋に天皇賞・秋に臨んだタマモクロスには、天皇賞の春秋連覇の記録がかかっていましたが、連覇を阻止すべく、地方から中央入りし快進撃を続けていた同じ芦毛のオグリキャップが参戦してきました。

芦毛対決で注目されたこのレースは、それまで後方から競馬をしていたタマモクロスが2番手につけ、場内がどよめきました。

しかし、直線で逃げていたレジェンドテイオーを交わすと、オグリキャップの追い込みを1馬身1/4抑え込み8連勝を飾りました。

ジャパンカップでは、アメリカのペイザバトラーに敗れたものの2着を確保したタマモクロスは、オグリキャップ(3着)に先着しました。

そして有馬記念を最後に引退を決定したタマモクロスは、現役最後のレースに臨みます。

しかし、積極的にレースを進めたオグリキャップを捕らえきれなかったタマモクロスは、オグリキャップの2着に敗れました。


種牡馬としてのタマモクロスは、重賞勝ち馬を何頭か出し、大物は出ないものの、なかなかの成功をしています。

日本で実績があり、海外でも成功しているフォルティノ系で注目されましたが、2003年4月10日に死亡しています。


私がタマモクロスを知ったのは、鳴尾記念からでした。

そして、それからのタマモクロスは、現役日本最強馬にふさわしい強さを見せてくれました。

(この記事は、サイト「メインウェーブ」の記事「タマモクロス」をそのまま転載したものです)

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2012年11月12日

シャドーロールの怪物3冠馬・ナリタブライアン

ナリタブライアンは日本競馬史上5頭目の3冠馬です。
シャドーロールを装着しており、その驚異的な強さとあわせて「シャドーロールの怪物」といわれました。
3冠のほかに有馬記念も制しており、「4冠馬」といわれることも・・・。
3冠レースにおける合計着差は歴代の3冠馬でも最大です。

▼履歴

▽誕生
ナリタブライアンは1991年(平成3年)5月3日に北海道新冠町の早田牧場新冠支場で生まれました。
父が後の名種牡馬となるブライアンズタイム、母が1993年の年度代表馬であるビワハヤヒデも輩出し後に名繁殖牝馬といわれるパシフィカスです。
ナリタブライアンは父ブライアンズタイムの初年度産駒、母パシフィカスの第3仔で、ビワハヤヒデは1歳上の半兄となります。

▽2歳
山路秀則氏の所有馬として大久保正陽厩舎に入厩したナリタブライアンは2歳夏の函館競馬場の新馬戦でデビューし「ビワハヤヒデ(この年の菊花賞を制覇し、翌年天皇賞・春、宝塚記念を制覇することになる)の弟」として注目されますが2着に敗れます。
敗れはしたものの騎乗した南井克巳騎手、管理している大久保正陽調教師はすでにナリタブライアンを高く評価していたようです。
中1週で臨んだ新馬戦を勝ったナリタブライアンは函館3歳ステークス(馬齢旧表記、現在の2歳)に駒を進めますが6着に敗れます。
福島競馬場できんもくせい特別に臨み2勝目を挙げたナリタブライアンは京都競馬場でデイリー杯3歳ステークス(馬齢旧表記、現在の2歳)に挑みますが6着に敗れます。
ちなみに、きんもくせい特別では清水英次騎手がテン乗りで騎乗し、ナリタブライアンを高く評価しています。

ナリタブライアンは疾走時に自身の影を怖がるため、レースに集中させるために目と鼻の間につけるシャドーロールを装着することにします。
(ちなみに私がシャドーロールの存在を知ったのは第2回ジャパンカップにアメリカから参戦した当時の獲得賞金の世界記録を所持していたジョンヘンリーによってでした、日本ではなじみが薄かったシャドーロールですが、欧州遠征時にスピードシンボリも装着していたようです)

シャドーロールを装着したナリタブライアンは京都3歳ステークス(馬齢旧表記、現在の2歳)で3勝目を挙げると朝日杯3歳ステークス(馬齢旧表記、現在の2歳)も快勝し、その年のJRA最優秀3歳牡馬(馬齢旧表記、現在の2歳)に選出されます。


▽3歳
3歳となったナリタブライアンは共同通信杯4歳ステークス(馬齢旧表記、現在の3歳)からスタートし同レースを快勝、スプリングステークスも快勝し、クラシックの主役として1冠目の皐月賞に臨みます。
皐月賞でも1番人気に応えてサクラスーパーオーに3馬身1/2差をつけてレコードで快勝、日本ダービーへ駒を進めます。
日本ダービーでも圧倒的1番人気の応え、別次元の強さでエアダブリンに5馬身差をつけて2冠目を制します。
この時点でナリタブライアンの3冠は確実ともいわれました。
日本ダービー後は牧場での放牧ではなく、JRAに特別に許可を得て厩舎関係者により札幌、函館の両競馬場で調整がされ秋に備えました。
秋の緒戦は京都新聞杯で、この時のナリタブライアンは本調子でないといわれ、敗れるとしたらこのレースといわれていました。
ナリタブライアンは直線でスターマンに競り負け2着に敗れます。
しかし3冠目の菊花賞では調子の上向いたナリタブライアンが圧倒的1番人気に応えてヤシマソブリンに7馬身差をつけて、さらに前年に半兄のビワハヤヒデがマークした菊花賞レコードを更新して日本競馬史上5頭目の3冠馬となりました。
前述の通り、ナリタブライアンの3冠レースにおける合計着差は歴代3冠馬で最大です。

ビワハヤヒデとの兄弟対決も注目されましたが、ビワハヤヒデは菊花賞に先立つ天皇賞・秋のレースで故障し引退となったため兄弟対決は実現しませんでした。

続く有馬記念でも圧倒的1番人気に応えてヒシアマゾンに3馬身差をつけて快勝、シンボリルドルフに並ぶ3歳にして「4冠」を制しました。
当然、この年のJRA年度代表馬に選出されました。


▽4歳
4歳となったナリタブライアンは阪神大賞典からスタートし、ハギノリアルキングに7馬身差をつけて圧勝、天皇賞・春へも死角なしと思われました。
しかしレース後まもなく右股関節炎を発症し、天皇賞・春を断念します。
秋に天皇賞・秋からスタートしたナリタブライアンは、ケガで騎乗不可能となった南井騎手に代わり的場均騎手騎乗で臨みますが、12着に敗れてしまいます。
さらにジャパンカップ、有馬記念でも武豊騎手騎乗で臨むものの6着、4着と敗れてしまいます。

▽5歳
5歳の緒戦も前年同様に阪神大賞典でしたが、前年の年度代表馬であるマヤノトップガンに1番人気を譲っていました。
レースは直線でナリタブライアンとマヤノトップガンの激しい叩き合いとなりましたが、ナリタブライアンがマヤノトップガンをアタマ差抑えて意地の勝利を挙げました。
このレースは「平成の名勝負」の一つに数えられる好レースといわれています。
このレースもナリタブライアンには武豊騎手が騎乗しています。
「復活」を印象付けたナリタブライアンは天皇賞・春に臨みます。
このレースでは久々に南井騎手とのコンビも復活しています。
天皇賞・春は1番人気に推されたナリタブライアンと阪神大賞典で死闘を演じ2番人気となったマヤノトップガンの対決が注目されました。
ブライアン(B)とトップガン(T)の「BT対決」として盛り上がりました。
しかしレースではマヤノトップガンが直線で沈み5着、ナリタブライアンも直線で先頭に立つもサクラローレルに差し切られ2着に敗れます。
ナリタブライアンは続いて武豊騎手の騎乗で高松宮杯に臨みます。
天皇賞・春の長距離(3200メートル)から短距離(1200メートル)の高松宮杯への対応が懸念され、追い込んだものの4着に敗れています。
この後、宝塚記念を目標に調整されますが、調教中に故障を発症し、引退となりました。

▽種牡馬として
早田牧場傘下のCBスタッドで種牡馬となって2年の1998年に胃破裂により死亡。
わずか7歳での早世が惜しまれます。

▽血統
父ブライアンズタイム、母パシフィカスともにナリタブライアンの生産者である早田牧場の早田光一郎氏が輸入しました。
ナリタブライアンは5代血統内にインブリードが無いアウトブリード血統です。
これはもちろん早田氏の意図によるものです。
配合の自由度が高いアウトブリードであったことを考えるとナリタブライアンの早世は改めて惜しまれます。

▼エピソード
ナリタブライアンは前述の通り、疾走中に自分の影を怖がる対策でシャドーロールを装着しました。
その後、精神的成長で自分の影を怖がることは無くなったようですが、大久保調教師によるとレース中のナリタブライアンを探す目印になることから装着を続けたそうです。
シャドーロールはナリタブライアンのトレードマークとなり「シャドーロールの怪物」と呼ばれることになります。

ナリタブライアンは4歳時の股関節炎の後遺症で、4歳の阪神大賞典(股関節炎を発症する前の最後のレース)より後のレースは全盛期の力が無かったとの見方もあります。

ナリタブライアンは死後に土葬が許可されています。
土葬が許可されたのはシンザン、テンポイント、マルゼンスキー、ナリタブライアンの母であるパシフィカス、そしてナリタブライアンの5頭のみです。

▼ナリタブライアンの評価
ナリタブライアンは4歳時の3冠レース、有馬記念で見せた圧倒的パフォーマンスによって史上最強馬との声もあります。
3冠レースにおける合計着差が歴代3冠馬で最大であること、直線で加速する力強いレース振りが評価されたのでしょう。

(この記事は、サイト「メインウェーブ」の記事「ナリタブライアン」をそのまま転載したものです)

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後方一気の3冠馬・ミスターシービー

ミスターシービーはセントライト、シンザンに続く日本競馬史上3頭目の3冠馬です。
3冠のほかに天皇賞・秋を制し「4冠馬」ともいわれました。
後方から追い込む競馬で人気を集めました。
後方一気の3冠馬といってよいでしょう。


▼履歴

▽誕生とエピソード
ミスターシービーは1980年(昭和55年)4月7日に北海道浦河町の千明牧場で生まれました。
父は皐月賞、有馬記念などを勝ち、「天馬」といわれたトウショウボーイ、母は毎日王冠などを勝ったシービークインでした。
この両馬は同じ新馬戦に出走しており、トウショウボーイが1着、シービークインは5着でした。
(なおこの新馬戦には後にトウショウボーイのライバルとなるグリーングラスも出走しており4着でした)
当初はトウショウボーイの父であるテスコボーイとシービークインを配合する予定でしたが、人気のテスコボーイの種付け権を確保できずトウショウボーイとの配合となる経緯がありました。
シービークインはミスターシービーが初仔であり、ミスターシービー以降は死産や不受胎などでミスターシービー以外には産駒は生まれませんでした。
3冠馬で兄弟がいないのはミスターシービーだけです。

ミスターシービーには戦前に先代がおり、1937年の日本ダービーでヒサトモの10着となり、後に障害で活躍しています。
本項のミスターシービーは2代目で、シービーは千明(ちぎら)の「C」と牧場(ぼくじょう)の「B」からとった冠名で、「ミスターシービー」は千明牧場を代表するような期待馬につけようとあたためていた名前でした。

千明牧場は1938年にスゲヌマ、1963年にメイズイで日本ダービーを制覇した名門牧場で、ミスターシービーの日本ダービー制覇で親子三代日本ダービー制覇の偉業を達成しています。
ミスターシービーは名門牧場の期待馬であったわけです。
なおミスターシービーの調教師の松山康久氏も父で調教師である松山吉三郎氏の1962年のフエアーウインに続く親子日本ダービー制覇を達成しています。

▽2歳
松山康久厩舎に入厩したミスターシービーは、吉永正人騎手の騎乗で新馬、黒松賞と先行して順調に勝ち進みますが、2戦ともスタートで出遅れており、2戦目で吉永騎手は「追い込み馬」に育てる決意をしたそうです。3戦目のひいらぎ賞でも出遅れましたが、後方から追い込む競馬を最初から決めていた吉永騎手はクビ差の2着敗れたものの、ミスターシービーの追い込む競馬に手ごたえを感じます。

▽3歳
3歳となったミスターシービーは共同通信杯4歳ステークス(旧馬齢で現在は3歳)、弥生賞と後方からの競馬で連勝してクラシックの主役に躍り出ます。

3冠第1弾で父トウショウボーイも制した皐月賞は雨であいにくの不良馬場となりましたが、「指定席」の後方から抜け出し「1冠」目を制します。

3冠第2弾の日本ダービーは父トウショウボーイが2着に敗れたレースで父の雪辱戦となりましたが、後方から直線で抜け出し「2冠」目を制しました。
しかしこのレースはミスターシービー騎乗の吉永騎手が4日間の騎乗停止処分を受けています。

2冠を制したミスターシービーは秋に京都新聞杯から復帰しますが、ここでカツラギエースの4着に敗れます。

それでも本番の菊花賞では1番人気に推されます。
菊花賞でも後方からスタートしますが、3コーナーからロングスパートをかけたミスターシービーは4コーナー手前で先頭に立つ「常識破りの競馬」でそのまま押し切ってシンザン以来19年振りの3冠を達成します。
3コーナーからの淀(菊花賞が行われる京都競馬場)の坂は「ゆっくり上がってゆっくり下らなければなららない」といわれる中でまさに「常識破りのレース」で杉本清アナウンサーの「大地が、大地が弾んでミスターシービーだ!」「史上に残る3冠の脚、史上の残るこれが3冠の脚だ!」の名実況とともに私にとっても印象に残るレースとなりました。

▽4歳
4歳となったミスターシービーはAJC杯から復帰を予定しますが、レースが降雪によるダート変更の可能性が高まったため出走を取りやめます。
その後、故障もあり、復帰は秋の毎日王冠からでした。
(ミスターシービーの休養の間に1歳下のシンボリルドルフが無敗の2冠馬となっており、無敗の3冠馬への期待が高まっていました)
このレースでカツラギエースの2着と敗れたミスターシービーでしたが、スローペースであったこともあり、ミスターシービーの上がり3ハロンが当時としては破格の33秒7であったことが話題となりました。
このレースでは南関東公営の3冠馬(東京大賞典も含め4冠馬といわれることも)となったサンオーイも出走していましたが、3着でした。
(このレースの1番人気はサンオーイ、ミスターシービーは久々もあり2番人気でした)

ミスターシービーはこの後、天皇賞・秋で最後方から豪快に追い込み優勝し「4冠」を達成しました。

続くジャパンカップでは、日本競馬史上初の無敗の3冠馬となったシンボリルドルフとの「3冠馬」対決が注目されました。
1番人気はミスターシービー、きついローテーションと体調不良も伝えられたシンボリルドルフは4番人気でした。
レースは10番人気だったカツラギエースが逃げ切り勝ちで、シンボリルドルフは3着、いつもの後方からの競馬でミスターシービーは10着でした。

そして有馬記念では最後方からではなく、後方から差す競馬を試みたミスターシービーでしたが、シンボリルドルフの3着に敗れました。
ジャパンカップを勝ったカツラギエースは2着でした。

▽5歳
5歳となったミスターシービーはサンケイ大阪杯からスタートしますが直線でステートジャガーに競り負けて2着に敗れてしまいます。
同じ日にシンボリルドルフが日経賞で余裕の逃げ切り勝ちをしたのとは対照的でした。

天皇賞・春ではスタートこそ後方からのミスターシービーは早めにシンボリルドルフの前にでる菊花賞を髣髴させる積極的なレースを進めますが、直線で力尽きシンボリルドルフの5着に敗れます。
後方からレースを進めていたミスターシービーがシンボリルドルフの前を少しの瞬間であれ走ったのはこのレースだけです。

ミスターシービーは秋にシンボリルドルフへの雪辱を期し休養に入りますが、その後脚部不安のため引退しています。
結局、シンボリルドルフには3戦全敗でした。

▽種牡馬以降
種牡馬となったミスターシービーはヤマニングローバル、メイショウビクトリア、スイートミトゥーナ、シャコーグレイドなどの重賞勝ち馬を出しました。
2000年12月15日に千葉県の千明牧場で死亡。

▽血統
父トウショウボーイは、内国産馬のエースとしてミスターシービー以外にもシスタートウショウ、アラホウトクの2頭の桜花賞馬、安田記念などを勝ったダイイチルビーなど重賞勝ち馬を出しました。
母シービークインは、4歳牝馬特別(旧馬齢、現在の3歳)、毎日王冠、京王杯オータムハンデなどを勝った名牝です。
母シービークインの半妹シービーフラワーの産駒(ミスターシービーの従妹)にクイーンカップを勝ちエリザベス女王杯を2着したスーパーショットがいます。
(エリザベス女王杯は当時の牝馬3冠第3弾で、ス−パーショットは牝馬3冠を決めたメジロラモーヌの2着)
曾祖母メイワの全弟に2冠(皐月賞、日本ダービー)馬メイズイがいます。
ミスターシービーの5代血統には、ネアルコ5×4、ハイペリオン4×5のクロスがあります。

▼ミスターシービー世代
ミスターシービーの同世代にはカツラギエース(ジャパンカップ、宝塚記念)、リードホーユー(有馬記念)、ニホンピロウイナー(マイルチャンピオンシップ2回、安田記念)、ギャロップダイナ(天皇賞・秋、安田記念)、スズカコバン(宝塚記念)などがおり、充実した世代でした。
一部には「(ミスター)シービー世代」は弱い」との声もありましたが、上記の同世代の実績からミスターシービー世代は決して弱くはないと思います。

▼愛された3冠馬
ミスターシービーはシンボリルドルフに3戦全敗と勝てませんでした。
しかし人気ではシンボリルドルフに劣らないものがありました。
まさに「愛された3冠馬」といったところでしょうか。
私が競馬に関心を持った時期と重なるミスターシービーは私も好きな馬でした。

(この記事は、サイト「メインウェーブ」の記事「ミスターシービー」をそのまま転載したものです)

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2012年11月06日

8戦8勝無敗、スーパーカーのマルゼンスキー

マルゼンスキーは英3冠馬ニジンスキーの仔で抜群の能力を持ちながら持込馬のため当時の規定でクラシックに出走できなかった伝説的名馬です。
8戦8勝、わずか8戦でつけた合計着差は61馬身、しかも1200メートルから1800メートルという着差がつきづらい比較的短い距離での着馬身であったことは驚異というしかありません。
マルゼンスキーは英3冠馬ニジンスキーの仔であり、種牡馬実績からも中長距離へも対応したはずですが、スピードの絶対値が違ったので比較的短い距離でもこのような圧倒的パフォーマンスを示したのだと思います。
持込馬で驚異的スピードを示したことから「外車」、「スーパーカー」といわれました。


▼履歴

▽誕生とエピソード
マルゼンスキーは英3冠馬ニジンスキーの仔で、母のシルがお腹に宿した状態でアメリカのキーランドセールで購買され輸入されました。
いわゆる持込馬で、日本でマルゼンスキーは誕生しました。

マルゼンスキーを購入したのは橋本牧場を運営していた橋本善吉氏で、もともとは牛の仲買人でしたが、海外で馬を購入することもあり、その経緯で購入したのがマルゼンスキーを宿したシルでした。
シルは名種牡馬でブルードメアサイヤーとしても大きな成功をしたバックパサーと全米牝馬チャンピオンとなったクイルの間に生まれ、しかも英3冠馬ニジンスキーの仔を宿していたのでかなりの高額となりましたが、橋本氏は落札に成功しました。
この時にこのセリに参加していたのが社台ファームの総帥・吉田善哉氏でした。
吉田氏は高値のため早めにセリを降りたものの、英3冠馬ニジンスキーの仔(マルゼンスキー)を宿したシルを競り落とせなかったことを気にしていたらしく後に橋本牧場を訪れたといわれます。
そしてマルゼンスキーを見て競り落とせなかったことに更に後悔の念を深めたといわれます。

▽絶対能力の違い
マルゼンスキーの脚には外向があり、そのため買い手がつかず橋本善吉氏自身の所有馬として本郷重彦厩舎に入厩しました。
マルゼンスキーは脚に爆弾を抱えており、目一杯の調教が行えないまま1976年10月に中山競馬場で中野渡清一騎手を背にデビュー戦を迎えます。
(マルゼンスキーがきっちり調教されたことは引退までありませんでした)
しかしデビュー戦でいきなりの大差勝ち、2戦目のいちょう特別も9馬身差の楽勝をします。
3戦目の府中3歳ステークス(馬齢は旧表記、現在の2歳)は将来を考え抑える競馬を試みて3連勝はしたもののヒシスピードにハナ差の苦戦をします。
4戦目に朝日杯3歳ステークス(馬齢は旧表記、現在の2歳)に臨んだマルゼンスキーは前走の鬱憤を晴らすような1600メートルで1分34秒4のレコードタイムをほぼ馬なりで記録します。
このタイムは1990年のリンドシェーバーまで14年間破られることはありませんでした。
(マルゼンスキーの時代には競馬場も現在ほど整備されておらずタイムが出なかったといわれます、特に朝日杯3歳ステークスの行われた中山競馬場の春先や年末のレースは馬場が荒れておりタイムが出ないといわれていました、このことを考慮するとマルゼンスキーの朝日杯3歳ステークスでのタイムは驚異的といえます)
(ちなみにシンボリルドルフの皐月賞での2000メートルで2分01秒1も当時のタイムが出ないといわれた春先の中山競馬場の馬場状態では非常に素晴らしいタイムだと思います)

翌1977年も快進撃は続きます。
オープンを2馬身1/2差で快勝すると、骨にヒビが入り少し休養、続くオープンでは休み明けを7馬身差で楽勝します。
マルゼンスキーのレースはまさに絶対能力の違いを見せ付けるものでした。

▽持込馬の不運
これだけの高い能力を見せたマルゼンスキーも当時の規定でクラシックには持込馬のため出走できませんでした。
過去には同じ持込馬のヒカルメイジが1957年の日本ダービー、ジュピックが1970年のオークスを制覇してるというのに・・・
1971年から1984年までの間だけ持込馬はクラシックを含む大レースへの出走規制があったのです。
主戦の中野渡騎手は「大外枠でいい、賞金もいらない、他の馬の邪魔もしない、だから日本ダービーに出走させてくれ」との主旨の発言をしたといわれますが、もちろん規定が覆ることはなく、マルゼンスキーは出走出来ませんでした。

▽真の同世代最強馬
マルゼンスキーは日本短波賞において日本ダービーに出走できなかった鬱憤を晴らすことになります。
このレースで後に菊花賞馬となるプレストウコウに7馬身差をつけて楽勝をします。
しかもハロン棒で1度スピードを緩めてから再び加速しての7馬身差でした。
中野渡騎手がレース前にハロン棒前でスピードを緩めたのをマルゼンスキーが覚えていたためハロン棒をゴール板と勘違いしハロン棒でスピードを緩めたといわれています。
同世代となる1974年生まれの真の最強馬がマルゼンスキーであることは明らかでした。
札幌で短距離ステークスに出走したマルゼンスキーは10馬身差の楽勝をします。
この時同じく札幌にいたトウショウボーイとの対決が噂されますが実現はしませんでした。

▽最強馬の証明へ
マルゼンスキーは持込馬も出走出来る有馬記念への出走へ向けて調整が進められました。
当初の巴賞から京都大賞典を経て有馬記念のプランは脚部不安で白紙に、ダービー卿チャレンジトロフィーから有馬記念へのプランも脚部不安で白紙となりこの不安が決定打となり引退することになります。
有馬記念出走で1歳上のトウショウボーイ、テンポイントとの対決、最強馬の証明は実現されることはありませんでした。

▽種牡馬として
種牡馬としてのマルゼンスキーは多くの産駒に自身の高い能力と脚部の外向を伝えました。
サクラチヨノオー(日本ダービー)、ホリスキー(菊花賞)、レオダーバン(菊花賞)、スズカコバン(宝塚記念)を筆頭に多くの重賞勝ち馬を輩出しました。
ノーザンテーストがリーディングサイヤーに君臨していた時代でリーディングサイヤーにはなれませんでしたが、マルゼンスキーに脚部の外向がなければ、ノーザンテーストと同じくらい繁殖牝馬に恵まれていれば、ノーザンテーストの牙城をもっと脅かす存在になっていたかもしれません。

またブルードメアサイヤー(母の父)としてもスペシャルウィーク(日本ダービー、ジャパンカップ、天皇賞・春、天皇賞・秋)、ライスシャワー(菊花賞、天皇賞・春2回)、ウイニングチケット(日本ダービー)、メジロブライト(天皇賞・春)を筆頭に多くの重賞勝ち馬を輩出しています。

1997年8月21日死亡。

▼マルゼンスキー世代
マルゼンスキーと同世代の皐月賞馬・ハードバージ、日本ダービー馬・ラッキールーラの種牡馬時代、晩年は不遇であったといえ、この世代は世代闘争において天皇賞・春を勝ったモンテプリンスがいるのみのいわゆる「弱い世代」と評価されています。
ある意味マルゼンスキーのみが突出していたことになります。

▼シアトルスルーの存在
1974年生まれのマルゼンスキーは米3冠馬・シアトルスルーとも同世代です。
もしマルゼンスキーを宿したシルが日本へ輸入されずマルゼンスキーがアメリカで走っていればシアトルスルーと3冠レースで対決していたかもしれません。

▼幻の対決
トウショウボーイとテンポイントとのマッチレース(出走馬は2頭だけではないが、2頭だけのマッチレースのようにスタートから競り合う)で名高い1977年の有馬記念にマルゼンスキーが出走していたらと思うとワクワクします。
有馬記念の対決も楽しみですが、私はトウショウボーイとの一騎打ちも見てみたいですね。
両馬とも天性の驚異的スピードを持った快速馬でした。
1600メートルから2200メートルまでのレースで「スピード頂上対決」を見たかったです。

(この記事は、サイト「メインウェーブ」の記事「マルゼンスキー」をそのまま転載したものです)

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