2012年11月12日

16戦16勝無敗、イギリス3冠馬・オーモンド

現在の競馬は、スピード化と長距離レースの価値の低下などで、長距離レースであるイギリス3冠の3冠目である英セントレジャーの価値の低下などで、イギリス3冠もホースマンの「目標」となっていない傾向です。

競馬は、3冠レースがホースマンたちの「目標」の一つでしたが・・・。

本記事のオーモンドは、ホースマンの「目標」であった3冠を達成しました。

しかも生涯戦績は、16戦16勝無敗でした。

オーモンドは、16戦16勝無敗のイギリス3冠馬

オーモンドは、1883年にイギリスで生まれました。

父ベンドア母リリーアグネス(父Macaroni)という血統です。

父ベンドアは、英ダービーを制した馬で、オーモンドの他に、英2000ギニーを制したボナヴィスタなどを出しています。

当時は、セントサイモンなどの圧倒的種牡馬成績でリーディグサイヤーとはなれませんでしたが、ファラリスの直系父系で、現在の主流血脈を形成しています。

母のリリーアグネスは、ドンカスターカップなどを制し、21勝(31戦)しました。

オーモンドの主な兄弟には、英1000ギニーを制したフェアウェル、プリンスオブウェールズステークスを制したオソリー、未勝利馬ながら名牝・セプターの母となったオナーメントがいます。


オーモンドは、1885年に2歳で、イギリスのポストステークスでデビューすると、1馬身差の快勝をします。

続くクリテリオンステークス、デューハーストプレートをそれぞれ3馬身差、4馬身差で楽勝します。

この年は、この3戦(3勝)で終了します。


1886年の初戦は、いきなり英クラシック3冠の1冠目である英2000ギニーでしたが、このレースをミンティングに2馬身差をつけて快勝します。

続いて2冠目の英ダービーに臨み、このレースで、ザバードに1馬身1/4差をつけて快勝します。

オーモンドは、さらにセントジェームズパレスステークス、ハードウィックステークスと連勝します。

3冠目の英セントレンジャーに臨んだオーモンドは、レースでセントミリンに4馬身差をつけて快勝しました。

オーモンドは、史上4頭目の英クラシック3冠馬となりました。

無敗でのイギリス3冠馬は、史上初で、この後アイシグラス、バーラム、ニジンスキーのオーモンドを含めた4頭だけです(2012年4月現在)。

しかもアイシグラスとニジンスキーは、3冠馬になった後、敗れており、生涯戦績で無敗は、オーモンドとバーラムの2頭だけです(2012年4月現在)。

オーモンドは、この後、グレートフォールステークス、ニューマーケットセントレジャー、英チャンピオンステークス、フリーハンデ、プライベートスウィープステークスを連勝してこの年を終了します。


1887年になっても、ルース記念ステークス、アスコットステークス、インペリアル金杯と連勝して、インペリアル金杯を制したのを最後に競走馬を引退します。


競走馬を引退し、種牡馬となったオーモンドは、英3冠馬で、生涯戦績も16戦16勝無敗の歴史的名馬にもかかわらず、不遇な余生を送りました。

すでに英セントレジャーの前に、母リリーアグネスの患った喉鳴症の兆候があり、その後も喉鳴症は確実に悪化していました。

馬主の初代ウェストミンスター公爵は、オーモンドに大きな愛着はありましたが、イギリスで喉鳴症を持ったオーモンドの血が広まることを危惧し、数年後に、アルゼンチンに輸出されました。

アルゼンチンでは成功せず、アメリカへ渡りました。

アメリカでは、フューチュリティステークスを制したオーモンデイルを出したものの、病気のため産駒数は少なく、1904年に呼吸困難で殺処分されています。

オーモンドの血は、イギリスに残した少数の産駒の1頭のデューハーストステークスなどを制したオームを通じて伝えられています。


前述のように、英クラシック3冠を制し、生涯戦績16戦16勝無敗の歴史的名競走馬ですが、種牡馬としては成功しませんでした。

(この記事は、サイト「メインウェーブ」の記事「オーモンド」をそのまま転載したものです)

2012年11月11日

10戦10勝無敗、伝説の名牝・ネレイデ

私が競馬について、興味を持ったのは、英3冠馬で16戦16勝無敗のオーモンドより評価の高いイギリスの10戦10勝無敗のセントサイモン、54戦54勝無敗の驚異的な戦績のハンガリーの名牝・キンチェムからです。

さらには、本記事・・・戦前とはいえ凱旋門賞連覇の名牝・コリーダを下しているドイツの伝説的名牝・10戦10勝無敗のネレイデからです。

私の競馬の血統の基本を氏の著書で形成した山野浩一氏が、ネレイデのことをドイツの「伝説の名馬」と絶賛したようです。

繰り返しますが、ネレイデは、凱旋門賞連覇の名牝・コリーダを下した10戦10勝のドイツの名牝です。


ネレイデは、1933年にドイツで生まれました。

ネレイデの血統は、父ラランド母ネレディグビオ(父Grand Parade)という血統です。

ネレイデの母・ネレディグビオは、イタリアの天才馬産家・フェデリコ・テシオ氏の生産馬です。

ネレイデの母・ネレディグビオは、ラランドだけでなく、グラフイソラニとも交配し、ネレイデが生まれたため、ネレイデの父は、ラランドかグラフイソラニとなっています。

現在は、後の血液検査などで、ラランドが父というのが、一般にいわれています。

血統表もラランドを父として作成しています。


ネレイデは、1935年6月にドイツの2歳牝馬限定戦でデビューし、1000メートルを1分01秒05の好タイムで、2着以下に4馬身差をつけて楽勝します。

2戦目のズィーアシュトルプフ・レネンで、1000メートル59秒6と2歳馬として、初めて1分の壁を破りました。

2着以下に6馬身差の楽勝でした。

3戦目に、ツークランフツ・レネンに出走し、3馬身1/2差の快勝・・・。

4戦目にオッペンハイム・レネンに出走し、8馬身差の楽勝をします。

続いて、ヘルツォーク・フォン・ラティボア・レネンで、3/4馬身差で勝ちます。

レースの内容は、着差以上の楽勝でした。

この年は、この5戦で終了します。


1936年は、いきなり、クラシックレースとなる独(ドイツ)1000ギニーですが、ウンフェアザークトにクビ差で勝ちます。

続いては、独(ドイツ)オークスです。

前走の苦戦で独(ドイツ)オークスの距離(2000メートル)を不安視されますが、独(ドイツ)オークスは、2分04秒6のレコードで、2着アレクサンドラに1馬身1/4差で快勝します。

当初ネレイデは、独(ドイツ)ダービーの数日前のニッケル・アイントラハト・レネンのみに出走する予定で、このレースで、アタマ差の勝利をしています。

ネレイデは、独(ドイツ)ダービーにも、出走し、このレースを2分28秒8のレコードタイムで2着アレクサンドラに4馬身差で快勝します。

このレコードタイムは、後にジャパンカップに参戦(優勝)のため来日した1993年のランドまで破られませんでした。

続いて、ネレイデは、ブラウネス・バント(Das Braune von Deutshkand)に出走します。

このレースは、フランスから欧州最強(牝)馬といわれたコリーダも参戦しました。

コリーダは、フランスの天才馬産家・マルセル・ブサック氏の生産馬で、このレースに参戦する前に欧州の大レースをいくつか勝ち、このレースの後、凱旋門賞を連覇するなどの名牝です。

レースは、ネレイデが、コリーダに1馬身差で勝っています。

斤量は、3歳ネレイデが53Kgに対し、4歳コリーダが60Kgとコリーダがかなり重くなっていますが、7月下旬の混合戦において、純然たる馬齢斤量差とされているものです。

ネレイデは、このレースを最後に競走馬を引退します。

前述の通り、このレースの前も欧州の大レースにいくつか勝ち、このレースの後、凱旋門賞連覇などをする名牝・コリーダ・・・。

そのコリーダに勝ったことで、ネレイデは「伝説の名馬」となりました。


競走馬を引退し、繁殖牝馬となったネレイデは、独(ドイツ)ダービー馬のノルトリヒトを出しています。

ネレイデは、牝馬を生まなかったので、ネレイデ直系の牝系は残っていません。

ネレイデの母・ネレディグビオは、ネアルコのいとこに当たる牝馬で、前述のようにフェデリコ・テシオ氏の生産馬です。

同馬を祖とする牝系は、その頭文字を取って「Nライン」と呼ばれ、ドイツを中心に繁栄しました。

日本で活躍したスーパークリークの父・ノーアテンションもこの牝系です。

1960年代のドイツの名種牡馬・ネッカルは、ネレイデの半妹・ナノンの孫にあたります。

ネレイデは、1943年に早世しています。

(この記事は、サイト「メインウェーブ」の記事「ネレイデ」をそのまま転載しています)

54戦54勝無敗、歴史的名牝・キンチェム

キンチェムは、生涯戦績が54戦54勝無敗のとてつもない記録をもつハンガリーで生まれた名牝です。

日本では長らく「キンツェム」とされていましたが、ここでは「キンチェム」として統一します。


キンチェムは、1874年にハンガリーで生まれました。

父カンバスカン母ウォーターニンフ(父コッツウォルド)という血統です。

父カンバスカンは、英2000ギニー2着、英セントレジャー3着などがあり、種牡馬としては英2000ギニーを制したカムバッロなどを出しています。

母ウォーターニンフは、ハンガリー1000ギニーを制しています。

キンチェムの半姉には、ハンガリーオークスを制したハマト(父Ostreger)がいます。


キンチェムは、2歳の1876年6月にドイツに第一クリテリウムでデビューします。

デビュー戦を4馬身差で快勝すると、フェアグライヒス賞などをと連勝し、ハンガリーでもボルガルディーユなどを連勝し、この年は10戦10勝で終了します。


1877年になると、ハンガリー2000ギニー、ハンガリー1000ギニー、オーストリアダービー、バーデン大賞、ハンガリーセントレジャーなど17戦17勝しました。

ハンガリー1000ギニーは、母ウォーターニンフに続く親仔制覇です。


1878年も15戦15勝しました。

特に8月から西ヨーロッパ遠征をしています。

イギリスのグッドウッドカップに出走し、快勝します。

キンチェムの強さは、イギリスにも知られており、「ハンガリーの奇跡」といわれていました。

フランスでドーヴィル大賞を勝ちます。

さらには、ドイツのバーデンバーデンのバーデン大賞に出走します。

キンチェムは自分が馴染んだものしか口にしなかったことから、キンチェムの遠征時には、牧場での水も持っていったが、バーデンバーデンでキンチェムは突然水を飲まなくなり、数日この状態は続いたが、ある井戸を見つけると、その井戸の水を飲みました。

この出来事がきっかけで、その井戸は「キンチェムの井戸」と呼ばれるようになりました。

バーデン大賞では、キンチェム騎乗の騎手が極端に後ろからの位置取りとなり、プリンスジルと1着同着となりました。

このとき、キンチェムに騎乗の騎手は酒に酔ったまま騎乗したそうです。

この後、プリンスジルとの優勝戦(決勝)が行われました。

優勝戦では、キンチェムは、野良犬に絡まれ、その隙に相手のプリンスジルがキンチェムを突き放しました。

しかし、キンチェムは野良犬を追い払い、プリンスジルとの差を詰め、あっという間に交わし6馬身差で楽勝しています。


1879年も12戦12勝でした。

10月にカンツァディーユの後、同厩舎の馬との喧嘩により脚を怪我したため、この年を最後に引退しています。


それにしても前述のように54戦54勝無敗の戦績はすごすぎます。


競走馬を引退し、繁殖牝馬となったキンチェム・・・

キンチェムの牝系は世界中で活躍しています。


キンチェムは、1887年に死亡しています。


1974年には、キンチェムの生誕100年を記念してブダペスト競馬場がキンチェム競馬場に改名され、ここにキンチェムの銅像も建てられています。


キンチェムの親友は、猫だったそうで、いつもこの猫と一緒に転戦しました。

また、厩務員のフランキーとも非常に仲がよかったといいます。

フランキーはその後、フランキー・キンチェムを名乗り、墓標にもその名が刻まれているため、本名がわかっていないほどです。

なぜかキンチェムはヒナギクが好きで、スタート地点で探すのが癖になっていました。

(この記事は、サイト「メインウェーブ」の記事「キンチェム」をそのまま転載したものです)

2012年11月08日

10戦10勝無敗、サラブレッドの血統の革命児・セントサイモン

セントサイモンは、1881年にイギリスで生まれました。

父ガロピン母セントアンジェラ(父キングトム)という血統です。

父ガロピンは、英ダービー馬だが、父系は、エクリプス系でも傍流で、母セントアンジェラは1勝馬。

母系に活躍馬は少なく、セントアンジェラの父(セントサイモンからは母の父)が英リーディングサイヤーのキングトムという以外は特に注目すべき血統ではありません。

当時流行の血脈がほとんどなく、逆に成功すれば、ほとんどの馬に配合できる血統ともいえます。
(マイナー血統ゆえの配合のしやすさ・インブリードなどをあまり気にせず配合できるのは、サンデーサイレンスの場合も似ていると思います)

デビュー前は、見栄えのしない馬体と血統で、元の馬主が死亡したため、当時のルールにより、クラシックに出れませんでした。

代わりに下級戦やマッチレース、古馬の上級戦などを戦い、戦績は10戦10勝の無敗(無敗は共通しているものの、異説もあり)で、ほとんどのレースで圧勝しています。

競走馬を引退し、1年の休養を経て、種牡馬となります。

セントサイモンは種牡馬として、空前の成功をし、牡馬と牝馬で1頭ずつ3冠馬を輩出し、クラシック全勝の年(1900年)もありました。

その血は世界に広がり、現在セントサイモンの血を持たないサラブレッドは存在しないようです。

19世紀で最も偉大な種牡馬といわれ、サラブレッドの血統の革命児というべき存在で、後のサラブレッドに大きな影響力を残しました。

馬名はフランスの社会主義思想家のアンリ・ド・サン・シモン氏にちなみ、「サンシモン」とも・・・

ここでは「セントサイモン」に統一します。

セントサイモンの生産者で、馬主であったバッチャー二・グスターヴ氏が死亡し、当時のルールでクラシックにセントサイモンは出られなくなりました。


セントサイモンは1883年に2歳となり、7月にハイネイカーステークスでデビューすると、デビュー戦、2戦目の未勝利を連勝します。

続くデヴォンシャーナーサリープレート、プリンスオブウェールズナーサリープレートと勝ちます。

10月にデュークオブリッチモンドとのマッチレースとなります。

セントサイモンは対戦相手に実力差を見せ付けるため、セントサイモンに騎乗のフレッド・アーチャー騎手が正確に3/4馬身差を保ってゴールしました。


1884年に3歳となったセントサイモンは、当時最強といわれていたといわれていたトリスタンとトライアルマッチで対戦し、このレースに楽勝しました。

エプソム金杯を単走で勝利し、当時の大レース・アスコットゴールドカップで楽勝・・・

ニューカッスル&ゴスフォースゴールドカップを勝つと、当時の大レースであるグッドウッドカップを楽勝します。

このレースを最後にセントサイモンは競走馬を引退します。


競走馬を引退し、1年の休養を経て、種牡馬となったセントサイモンは、1890年から1896年まで7年連続英リーディングサイヤー・・・。

英リーディングサイヤーには、前述の7年連続と1900年、1901年と計9回なりました。

英リーディングブルードメアサイヤーには、1903年から1907年の5年連続と1916年の計6回なっています。

セントサイモン系は、急速に拡大し、「セントサイモン系でなければ、サラブレッドではない」ともいわれました。

しかし、セントサイモン系は急速な拡大から、その後、衰退します。

セントサイモンの血で溢れ、衰退する俗にいう「セントサイモンの悲劇」が起こります。

その後、セントサイモン系は主流血脈ではなくなりました。


気性が激しく、多汗だったセントサイモン・・・

気性を改善させようと、キンチェムなどの例を真似し、猫を放したが、即座にセントサイモンは猫を叩き殺してしまったという。

なぜか蝙蝠傘を怖がり、杖に帽子を被せ、蝙蝠傘に模し、セントサイモンは大人しくなったという。

レースで1度も本気で走ったことのないセントサイモンは、調教で1度だけ「本気」となり、「アーチャーが乗ればカタツムリでも勝てる」といわれた天才騎手をして恐怖し「二度と本気で走らせたくない」といったといわれます。

セントサイモンが本気で走るのは、煮えたぎる蒸気機関車のようであり、走り方は、ドッグレースなどに使われるグレイハウンドそっくりといわれます。


セントサイモンへの評価は高く、セントサイモンを管理したドーソン調教師は、セントサイモンを「偉大な馬」とたたえ、主戦騎手だったアーチャー騎手は、後に騎乗した英3冠馬・オーモンド(前述のように英3冠馬であり、戦績16戦16勝の無敗)と比較して、「間違いなくセントサイモンが上だ」と断言しています。

セントサイモンは、種馬場としてはもちろん競走馬としても非常に評価が高いです。

古い時代の馬ですが、後の影響力などを考えると、エクリプスなどとともに、番外の「最強馬」といっていいかもしれません。

(この記事は、サイト「メインウェーブ」の記事「セントサイモン」をそのまま転載したものです)