2012年11月10日

日本競馬史上初の3冠馬・セントライト

セントライトは、1938年に生まれました。


父ダイオライト母フリッパンシー(父フランボヤント)という血統です。

セントライトの母・フリッパンシーは、歴史的名繁殖牝馬で、セントライトの他に皐月賞、菊花賞を勝ち、種牡馬としても大成功したトサミドリ、皐月賞(当時のレース名は横浜農林省賞典4歳呼馬、馬齢は旧表記で現在の3歳)、天皇賞・秋(当時のレース名は帝室御賞典・秋)を勝ったクリヒカリ(旧名アルバイト)などを輩出しています。

セントライトは、デビュー戦を勝つと2戦目に皐月賞(当時のレース名は横浜農林省賞典4歳呼馬、馬齢は旧表記で現在の3歳)を制し、その後4戦(3勝)し、日本ダービー(東京優駿競走)に臨みます。

このレースで2着に8馬身差をつけて楽勝します。

秋に5戦(3勝)の戦歴を重ね、菊花賞(当時のレース名は京都農林省賞典4歳呼馬、馬齢は旧表記で現在の3歳)を制し、競走馬を引退します。

日本競馬史上初の3冠馬なのですが、当時は、あまり注目されなかったそうです。

しかし、2頭目の3冠馬・シンザンまでその後23年を要したことは、3冠馬となることがいかに難しく、価値があるかを物語っています。

セントライトは、種牡馬としても天皇賞・春を勝ったオーライト、オーエンス、菊花賞を勝ったセントオーを輩出しました。1965年死亡。


セントライトは、当時の時代背景から、あまり注目されなかったため、地味な印象を受けますが、日本競馬史上最強馬に推す人もいます。

(この記事は、サイト「メインウェーブ」の記事「セントライト」をそのまま転載したものです)

posted by keiba-meeting at 10:41| Comment(0) | 1950年生まれ以前の名馬(日本) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月09日

10戦10勝無敗、幻の馬・トキノミノル

トキノミノルは、1948年に生まれました。

父セフト母第弐タイランツクヰーン(父ソルデニス)という血統です。

日本ダービーまでデビューから10連勝、7度のレコード勝ちの圧倒的パフォーマンスから、トキノミノルを「幻の3冠馬」、日本ダービー以後、距離が伸びても勝ち続けたとの見方がある一方で、前述の父セフト母第弐タイランツクヰーン(父ソルデニス)というスピード血脈の強い血統から長距離になれば苦戦したとの見方もあります。
(トキノミノルは、史上最強馬とも評価される一方、日本ダービーまでの距離がギリギリでは・・・との見方もあります)

もちろんトキノミノルが「能力差」で、長距離を克服する可能性もありますが、トキノミノルは距離が伸びると苦戦したと思われます。

トキノミノルが、3歳の秋以後も、距離が伸びて、強さを示したかどうかは、日本ダービーの勝利から17日目に死亡したため、わかりません。

トキノミノルが距離が伸びても強さを示したかは永久に謎となりました。


トキノミノルは、1950年、函館でデビューします。デビューした時の名前は、パーフェクトでした。

このデビュー戦を逃げて、レコードで圧勝したパーフェクトは、トキノミノルと改名しました。(現在は、デビュー後の改名は認められていません)

トキノミノルは、その後、2戦目のオープン戦を除き、レコード勝ちで圧勝を続け、5戦5勝で、関東の2歳王者を決める朝日杯3歳ステークス(馬齢旧表記、現在の2歳)に駒を進めます。

トキノミノルは、このレースでも4馬身差をつける逃げ切りの圧勝をし、関東2歳王者となりました。


1951年に、3歳になったトキノミノルは、選抜ハンデ戦、オープン戦のステップレースも楽勝し、1冠目の皐月賞に挑みます。

この頃、楽勝を続ける裏で、脚元の不安にも悩まされていました。

皐月賞では、いつものように逃げ切り、6度目のレコードで圧勝したトキノミノルは、いよいよ日本ダービーの舞台に立つことになります。


日本ダービーでのトキノミノルは、多頭数と脚元の不安の影響から、今までの逃げる競馬が出来ませんでしたが、3コーナーで先頭に立つと、そのままイツセイに1馬身半差をつけて、7度目のレコード勝ちを収めました。

しかし、日本ダービー優勝から1週間も経たない4日目頃から、トキノミノルは、体調を崩します。

そして診断の結果、破傷風と判明し、その後の治療の甲斐もなく、日本ダービー優勝から17日目に急死してしまいます。

作家の吉屋信子さんが、「初出走以来10戰10勝、目指すダービーに勝って忽然と死んでいったが、あれはダービーをとるために生まれてきた幻の馬だ」と新聞紙上でその死を悼んだそうですが、多くの競馬ファンにとっても同じ思いだったと思います。

現在、東京競馬場のパドック付近に飾られている銅像こそ「幻の馬」トキノミノルの雄姿です。



10戦10勝、うちレコード勝ち7度の圧倒的なレースぶりと日本ダービー優勝から17日で急死したトキノミノルには、「幻の馬」という称号がぴったりだと思います。

(この記事は、サイト「メインウェーブ」の記事「トキノミノル」をそのまま転載したものです)

2012年11月08日

11戦11勝無敗、変則3冠・クリフジ

クリフジは、1940年に生まれました。

クリフジは、父トウルヌソル母賢藤(父チャペルブラムプトン)という血統です。

父トウルヌソルは、大種牡馬で、産駒が多くの大レースを制し、兄弟には、全兄に帝室御賞典・秋(後の天皇賞・秋)を制したハツピーマイトなどがいる良血です。

11戦11勝には、日本ダービー(東京優駿競走)、オークス(当時のレース名・阪神優駿牝馬)、菊花賞(当時のレース名・京都農商省賞典4歳呼馬、馬齢は旧表記で現在の3歳)の大レースの勝利もあり、「変則3冠」を制したともいわれます。


クリフジは、1943年5月16日ににデビューし、1馬身差で勝つと、2戦目に大差勝ちの圧勝をし、3戦目で、日本ダービーに挑みます。

このレース(日本ダービー)は、スタートで両脇の馬に包まれたクリフジが最後方まで下がってしまい、レースを進めることになります。

それでいて4コーナーから進出したクリフジは、ゴールでは2着に6馬身差をつけ、従来のタイムを1秒6も縮めるレコードで圧勝しています。

しかも鞍乗の前田長吉騎手が後ろから脚音がしなくて不安になって後ろを振り返ったといわれるほどの余裕の勝利でした。

日本ダービーが行われたのが6月6日でデビューからわずか3週間での日本ダービー制覇でした。

秋にステップレースを3馬身差で勝つと、続くオークス(当時オークスは秋に開催されていました)でも10馬身差で圧勝し、さらに2つのレースを10馬身差で圧勝すると菊花賞に駒を進めます。

このレース(菊花賞)2着のヒロサクラに大差勝ちをして、日本ダービー、オークス、菊花賞の「変則3冠」を達成しました。

この時の2着のヒロサクラは、翌年の天皇賞を制しており、クリフジの力がいかに抜きん出ていたかを証明しています。
 
翌年戦争が激しくなる中で、競馬は縮小され、クリフジは、能力検定競走(レースの記録のみをとるレース)を3戦して引退しました。

ちなみに、3レースの着差も5馬身、10馬身、6馬身と他馬を圧倒しています。


クリフジは競走馬を引退し、繁殖名・年藤としても牝馬2冠(桜花賞、オークス)のヤマイチ、金盃を勝ち天皇賞2着のホマレモン、クモハタ記念のイチジョウなどを出して活躍しました。

1965年死亡。


クリフジが活躍した時代は、戦時中、しかも戦争後半であったことから馬の質、量ともレベルが低かったことは否定できませんが、それにしても11戦11勝の戦績と大レースを圧勝したその内容は圧巻です。

そのため、クリフジを日本競馬史上最強馬に推す人もいるほどです。

シンボリルドルフの調教師だった野平祐二調教師も日本競馬史上最強馬にクリフジを挙げたといいます。


戦中の「伝説的」名馬ですが、たしかにその圧倒的な戦績は、驚嘆に値します。

(この記事は、サイト「メインウェーブ」の記事「クリフジ」をそのまま転載したものです)